リチャード・ランガム『善と悪のパラドックス』を読んだので紹介する

 『善と悪のパラドックス』ヒトの進化と自己家畜化の歴史 を読んだ。私は『サピエンス全史』もジャレット・ダイヤモンドの著書もまだ読んでいない(サピエンス全史は前半で投げ出してしまった)が、この本は面白かった。この本を読む前に著者であるリチャード・ランガムの『火の賜物』を読んでこちらも大変読み応えのある読み物であったから、期待が高かったが、そういう気持ちがなくても最後まで読み通すことはそれほど難しくなく、霊長類が専門である著者の分野の横断をものともしない幅広い知識量に圧倒され続けた。一部では進化心理学の本として捉えられているが、著者はチンパンジーボノボといった霊長類の専門家であり、進化人類学の分類に入ると思う。考古学的な研究に裏付けされていて、読んでいて議論に疑念を抱く箇所もほとんどない。(『火の賜物』もそうだった。もちろん私が進化人類学分野にうとく、また進化心理学分野に若干の胡散臭さを感じていることも事実なのだが)

善と悪のパラドックスとは何か?

 まずタイトルになっている「善と悪のパラドックス」とは何がパラドックスなのだろうか?この問いに答えるのが本書なのだが、道のりは長い。冒頭で示されることとしては、人間は他の霊長類に比べて、格段に日々の生活で暴力的になることは少ない(チンパンジーはよく喧嘩をする)。しかし、時に他の動物にはみられないほど残忍に、特に戦争時などに発揮する暴力における死亡の割合はとてつもなく高い。進化の過程の淘汰で日常生活でカッとなり衝動的に発揮される暴力性(=反応的攻撃性)がとても低くなるよう種として進化した一方、組織だって計画的に実行する暴力性(=能動的暴力性)が高く、この能力については淘汰されずに残った。この矛盾を「善と悪のパラドックス」と著者は表現している。

反応的攻撃性と自己家畜化

 反応的攻撃性とは、脅威に対する反応として嫌悪の対象を取り除くために起こるものとされ、テストステロン濃度が関係している。我々ホモサピエンスは直接のネアンデルタール人からの子孫ではない(アフリカ人以外には、1〜4%の遺伝子がネアンデルタール人と共通、アフリカ人は共通していないのだそうだ)が、ネアンデルタール人をはじめとする我々の祖先の男性は、もっとテストステロン濃度が高く、凶暴だったとされる。一方の能動的攻撃性は、計画されたもので、感情表現を必要としない、それ自体が報酬となるものである。
 我々は反応的攻撃性が低い。とても忍耐強く、温厚で協調的である。なぜこのように進化したのだろう?本書の前半から半ばまではこの問いに対する議論が進んでいく。キーワードは「家畜化」と「自己家畜化」だ。

家畜化症候群はなぜ起こるか?

本書では、ブルーメンバッハらにしたがって、「家畜化」ということばを、(「生涯のあいだに飼い慣らされる」ではなく)「遺伝的適応の結果として従順になる」という意味で使用する。「自己家畜化」は、同じプロセスが単一の種のなかで起きることを指す。つまり、ある種のなかで、ほかの種にうながされることなく、反応的攻撃性が低下するプロセスを「自己家畜化」と呼ぶ。p116

 ランガムは、我々人類の祖先も、その他の動物と同様に家畜化した種であることを説明する。我々の自己家畜化は30万年前に始まったとされる。その後、10万年前〜6万年前までには、言語レベルが現在のレベルにまで発達していたようだ。
 家畜化の淘汰圧については、カーティス・マリアンのいう支配的適応(協調、社会的学習がホモサピエンスに特異なものとする)や遺伝的浮動、狩りの進歩や気候、調理に要因を求める説があるが、どちらも反動的攻撃性の低下や家畜化の答えにはなっていない。
 では何がその答えなのか。ベリャーエフは実験によって反応的攻撃性を抑える選択が家畜化症候群につながることを発見したが、これはチンパンジーから分岐したボノボを見ると、反応的攻撃性を抑える選択の副次的影響として進化したことがわかるという。

一般的な原則は、家畜化されたおとなの動物が、野生の子供の生理機能と反応行動を持っているということだ。(社会化の窓の期間延長とペドモルフォーシス)

 つまり、更新世中期に起きた自己家畜化の多くはペドモルフォーシスで説明ができる。従順さ、協調性もそうである。協調的コミュニケーションの能力も家畜化の副産物として生まれた。そして、その言語を用いた″共謀″こそが処刑と、そしてその処刑が同調圧と共に道徳感覚を生んだ、と本書は進んでいく。

 共謀により、集団を乱す横暴に振る舞うボスタイプを処刑することが可能となった。万人にとって同調が重要なこととなり、約12,000世代を経るうちに、我々は穏やかな種に進化した。動物世界でも、また人間世界でも行われていた処刑が道徳感覚を生んだとされる。処刑は共謀が可能にしたものだ。しきたりを守らない個体は仲間はずれにされるだけでなく処刑される場合もあった。

ペドモルフォーシス

本書を理解するうえで、ペドモルフォーシスの理解は欠かせない。幼形形成と訳されるペドモルフォーシスは、家畜化した動物に共通して見られる特徴で、脳が小さい、吻部が突き出ていない、顎と臼歯が小さい、性差が小さい、耳が垂れる、等々がある。こちらも家畜化したことによって進行したことが示されている。チンパンジーよりも頭蓋骨が小さく、また協力的であるボノボも、チンパンジーからペドモルフォーシスで進化した(90〜210万年前)と説明される。

脳内でセロトニン濃度が高くなると反応的攻撃性が低下する。ボノボ扁桃体には、チンパンジーの2倍ものセロトニン作動性軸索(セロトニンに反応する神経)が存在する。つまり、ボノボでは反応的攻撃性と恐怖の衝動を制御する能力が大きく進化してきた。

実際、ホモサピエンスも1,500ccまで頭蓋骨の容量が大きくなったのちに1,300ccまで小さくなったことがわかっている(だからといって知能が衰えることがないことも他の動物の幼若化によって示されているようだ)。

道徳の起源

道徳性の発達については、主にジョナサン・ハイトの言うところの「啓発された利己主義」とデュルケムが言うところの「集合的沸騰」があるのが通説のようだ。本書では、処刑が道徳体型を与えた、という説が導入される。
 集団の役に立ちたいという感情は、個人の利益を犠牲にするため、生物進化的には矛盾するが、この進化については、死刑がおこなわれ始めた中期更新世に、個人は生き延びるために社会的非難に敏感に対応することを求められた、と説明される。

クリストファー・ボームの2012年の著者「モラルの起源」の考えによれば、我々は集団内の殺傷能力を怖れるように進化した。集団志向の道徳的感情がなぜ他の種に比べてヒトに強く存在するかはこの考えで説明がつく。p259
なぜ人間は例外的に向社会的なのか、なぜ何かに導かれて善悪を判断するのか、なぜ悪事を目撃すると介入したくなるほど気にかけるのか。クリストファー・ボームによれば、その答えはトラブルメーカーにとって死刑が現実的な脅威となる閉鎖的な小集団のなかにある。
 人間の集団で平等主義が強まるたびに、論理的な適応として、バンドのボス的な存在は支配力を慎重に抑制するようになった…やがて、ほかの動物では進化しなかった良心の原型のような意識が芽生え、類人猿的な恐怖にもとづく自制心が人類の祖先に広がっていったのだろう。p275

およそ30万年前、男たちは絶対的権力を発見した。たしかに死刑制度が始まるまえにも、チンパンジーのように個別に女性を支配していたが、死刑導入後には、男性の女性支配は新たな形式をとった。制度にもとづく特別な意味での支配、すなわち「家父長制」になったのだ。この制度は、成人男性が自分たちに共通する利益を守るネットワークだった。p278

はみ出し者とみなされる危険を最小化する個人が、進化上有利になった。p279

能動的攻撃性とその起源

処刑がヒトを家畜化し、道徳感覚をもたらした。本書の最後では、人間の社会生活が他の動物と全く異なるものにした多様な能動的暴力のひとつである処刑=能動的暴力性が、ヒトを温厚で寛大な種にしながらも、邪悪さをもたらしたことについて触れられる。
 本書で使われる″能動的攻撃性″をランガムは「連合による能動的攻撃性」と言っている。連合とは複数の個人が組織的な暴力行為のために実行集団に加わること。能動的とは、計画的、意識的であること。つまり、意図的な攻撃に向けて集団が結成されることである。反応的攻撃性と違って能動的攻撃性は多くの種において滅多に見られない。そこが反応的攻撃性との違いである。霊長類の数種では性選択以外の理由で子殺しが起きる。戦略的に子を殺す。オオカミ、チンパンジーにおいてはおとな殺しもある。人間も同じく、更新世以後の狩猟採集民でも殺し合いが行われてきたことが考古学上の史実として示されている。

 ヒトと社会を真に独特な存在にしているのは「連合による能動的攻撃性」だ。人類の祖先のあいだでは、社会集団メンバーに向けた「連合による能動的攻撃性」が自己家畜化と道徳の進化を可能にした。現代ではそれによって国家が機能しているが、残念ながら、戦争、カースト、無力な人々の虐殺など、さまざまな形の暴力や抑圧も同時にもたらされた。

 では、この能動的攻撃性を人類はどのように発達させたのか?
 攻撃性は進化生物学に無関係であるとする学説と、進化的適応とする見方があるが、後者の方が他の種との類似点や相違点の双方において裏付けられている。現在では、狩猟採集民は戦争を繰り返し、その戦闘的な性質は更新世に進化した心理的適応に大きく影響されている、との説が進化人類学者の多くが同意するところのものだ。
 進化論的に、生物学的に「なぜ殺すのか?」の答えは「殺しを楽しんでいるから」との答えが示される。進化は他者を殺すことを快楽にした。殺しが好きな者は適応の恩恵を受ける傾向があったのだ。身も蓋もない、残酷にも思える答えである。しかし、ホロコーストのような冷酷で計画的暴力でさえ、われわれは「非人間的」というレッテルを貼りがちであるが、系統学的に見れば決して非人間的ではなく、むしろ完全に「人間的」なのだ。これほど計画的な手法で同じ種を大量に殺害する哺乳類はヒトを除いてほかには存在しない。

戦士が殺害の興奮だけを報酬と見なす報告は多数ある。報復はよく戦争と暴力の動機になる。実験によると、復讐から生まれる喜びの感情は脳内の特定部分、尾状核で起きる神経作用と関連している。ネズミとサルの場合、尾状核は期待される報酬の処理にかかわり、報酬にはコカインやニコチンから派生するものも含まれる。人間の場合、尾状核が活性化しやすいと、積極的に他者を罰しようとする。尾状核の活性化は神経作用の一種で、殺害行為に興味を持たせるように進化した可能性もある。p337

パラドックスを超えて

 本書の最後では、この能動的攻撃性と未来について述べられている。
 狩猟採取民族などの小規模社会から続く戦争(本書では”単純な戦争”と表記される)は、オオカミ、チンパンジーが行う闘いと何ら生物学的に変わることのない性質の発露で、意図を共有したコミュニケーションによって(共謀)争われる。ヒトは人を殺すことを快楽となるように進化した。これはセックスが快楽となるよう進化したことと同じく、その方が生き延びる確率が高かったからだ。
 では、我々は戦争を避けることはできないのだろうか?
 戦争が我々の進化的背景から避けることができない、という結論はあまりにも残酷である。ルソー派の一部は、そうした生物学的決定論を用いることがあるが、ランガムはそこまで悲観的ではない。

一部のルソー派が主張する戦争が適応だとしたら避けられないに違いない(生物学的決定論)という考えは誤りであり、暴力は社会的に防ぐことができる。抑え難い衝動という考えに縛られず、戦争の進化的な重要性について考えることは可能だ。

50〜30万年前のどこかの時点で、謎めいた言語能力が備わりはじめ、人間は新たな世界に放り込まれた。言語は高い殺傷能力と低い感情的反応が同居するキメラ的な人格を作り出した。比類ないコミュニケーション能力のおかげで、われわれの精神には比類なく矛盾した攻撃性がもたらされたのだ。p361
我々の「善」の面、つまり低い反応的攻撃性だけが進化の産物だと想像する方が、多くの人にとって心情的に楽だろう。しかし「悪」の面、…邪悪の行為の原因となる高い能動的攻撃性も、進化の歴史に位置づける必要がある。p362

かといって、楽観論に堕することもなく、進化として能動的攻撃性を備えた″キメラ″である人類は、そうした生物学的決定論に陥ることなく、複雑な政治的な対立を超えて協調的に争いを乗り越えていける、というのが筆者の主張だ。我々が危険な種であることの自覚をもとに、軍国主義的価値観や過度の楽観的な平和主義、権力濫用の抑制のために、強固な制度と警戒が必要だ。協調についても、アウシュビッツを引き合いに出しつつ、善にも悪にもなり得るものとし、″組織的な暴力がもつ力をいかに軽減できるか″が課題であるとし、本書は終わっている。
「すべての人間は身の内に野獣を隠している」ーフリードリヒ大王