日常の裂け目

 退屈な感情というか、退屈な状態は確かに耐え難い。「暇と退屈の倫理学」ではそのあたりが考察されていたけれど、熊谷さんとの対談を経て、退屈はなんらかのトラウマ的な状況を呼び寄せてしまうから、そこから逃れるために気晴らしを行うのだ、と確かそんな風に書かれていたと思う。この退屈な状態、というのは、なにごともない日常が繰り返されるだけの毎日、というある程度の長い時間においてもそうなのかもしれない。「退屈」というとどうしても小一時間か、数時間の時間をイメージしがちだが、数週間のスパンで感じる退屈、というのも確かにある。

 そうした退屈な日常の繰り返しは耐え難い、それが何らかの心の疼きをもたらす、ということはどういうことなのだろう?なんらかのアディクション、アルコール依存のような人たちは、それらの日常に耐えきれずに酩酊を求める、とすれば酩酊は気晴らしの代替物なのだろうか。それら、ちょっとした気晴らしの延長線上にアディクションが位置するのだろうか。アントニオ・ダマシオの言うところの3つの意識の層のうち、真ん中が疼きはじめることで、その胎動を感じて何らかの気晴らしを行う。その疼きを紛らわせるために強い刺激が必要になる。そういうことだろうか?

 退屈が耐え難いトラウマを呼び寄せる、そういう時にこそ、強い覚醒を求めているような感じがするのは、どこか矛盾している気もする。なぜ呼び寄せられるトラウマをいなすために、強い刺激が必要なのか。刺激、日常の裂け目の反復と確認。それが何から得られるものであれ、意識の覚醒状態を一段階引き上げてくれるものから何かを補給しなければ人は生きていけないのだろうか。ときどき、ある一定期間内に一度は必ず問題行動を起こしてしまう、という人に出会ったりする。痴漢もそうかもしれない。おそらく、法に触れるか触れないか、病気と鑑別されるか否かにかかわらず、誰もが大なり小なり、そうした日常の裂け目を定期的に求め、何かを補給している。