シューマン

 今日はリハで弾かせていただいた。
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 シューマン(fantasie op.17)は、ようやく一つの作品として乗りこなせるようになってきたものの、この曲の怖さが身体に染み付いているからか、あまり身の入った練習が出来ずにいた。3年前か、この曲を生で聴いてからその後の半年くらい、精神を乗っ取られたような気持ちで日々の生活を送らなければならず、かなりしんどい思いをしたのを覚えている。外形上は変わらずとも日常生活が一変してしまい、うなされることはなかったものの、ふわふわとこの世のものではない何かになったかのような気分で生活し、毎日散歩をしたり気を紛らわすことに必死だった。この曲の持つなにかに自分のなにかが感応し、自分の中でなにかが起きていた。だが、なにが起きていたのかはその当時も、今でも分からないままだった。

 仕事をしていたから仕事を休むわけにもいかず、なるべく規則正しい生活を送り、ランニングの回数を増やすようになった。一刻でも早くこの何かに取り憑かれたような感覚を払拭したかった。なにか現実の裂け目を覗いてしまったような感覚と、その裂け目から吹き出す真っ黒いべたついた液体を身体中に浴びてしまったかのような気持ち悪さがいつまでたっても消えなかった。頭が重く、意識は明瞭だったものの、普段とは異なるなにかが心の中で起動しているのがわかった。

 結局それは時間とともに過ぎ去り、それ以来、さまざまな録音でこの曲を聴いても、以前のようにひどく精神を乱されることはなくなっていた。それでも、この曲の何に自分が感応して乱されていたのか、理由がはっきりわからない以上は、この曲に取り組むにあたって不安がない訳ではなかった。そもそもなぜこのような苦しい思いをした曲を選択したのか、という気持ちもあったにはあったが、このような普通ではないことを自分にもたらした曲に取り組まない理由もなかった。そして、ようやくテクニカル的な部分でも取り組めるだろうと判断したのが今回だった。

 恐ろしい曲だということが分かっていたからこそ、なるべく曲を全身で受け止めることなく、心の中にまで染み渡らせることなく練習を続けてきた。それはある程度のところまでは成功したと思う。でも、だんだんと、この作品に最後の1ピースを与えるのはプレイヤーの心の部分で、それがテクニカルな部分に直結していると感じるようになった。ドイツロマン派に取り組むのも初めて(ベートーヴェンは何度か弾いている)であればシューマンも初めてで、いったいどんな感じなのか思慮していたのだが(シュレーゲル兄弟のことやドイツロマン派の人文系の運動の文献にも少しあたった)、想念が先立つという点においてはショパン以上かも知れず、プレイヤーのエモーショナルな部分に駆動され先導されていくことがこの曲の一部として必要な要素だということを確かなものとして感じ取るようになった。モーツァルトベートーヴェンに取り組んでいる時分にはそのような感想を抱くことはなかった。

 モーツァルトベートーヴェンは、誤解を恐れずに言えば、曲そのものが曲を成立させている。しかし時代が下ったこのシューマンの作品は、作品それ自体としては成立しておらず、プレイヤーの感情を作品を駆動させる要素の一部として要求する。感情として引き出されることを必要としている。だから、プレイヤーは穏やかではいられないのだ。

 かくして、かつて自分が経験した不可思議なことは、この曲が要求するところの情念を、奏者がこの曲が求めるような仕方で聴衆に提示したそれに促され、抗うことが出来ないほど圧倒され、打ちのめされ、普段は閉じたままであった心の蓋を開けてしまった、そういう経験だったと今では言うことができる。なんと素晴らしい演奏、経験だろう。

 ああ、そういうことだったのか、と思って安堵した一方で、まだ大事な問いが手つかずのまま残っていることに思い至る。この曲はどんな情念と感情を要求しているのか、引き出されることを欲しているのか、だ。来週の自分は、その情念を取り出し、差し出すことができるだろうか。そのためにはなにが必要だろう?

(まだ無名ぽいけどザルツブルグに留学してる韓国の音大生の演奏。弾き方も好きでよく聴いてる)