読書

責任の生成

國分先生と熊谷晋一郎さんの対談本を読んだ。きっかけは、山口尚さんの新書で國分さんの箇所を読んで引っかかり、ケアの伊藤亜紗さんの新書で中動態について書いている論考を読んだことから、もう少し深く当事者研究との絡みを知りたいなと思ったことだった。「中動態の世界」はまだ読んでないけれど、この本でも十分にエッセンスは掴むことができる。そして障害学の基本的な考え方についても熊谷さんが開陳してくれていることが、パラリンピックの開会式の演出についての理解にも繋がった。医学モデルから社会モデル、という流れ。

基本的に2人のお話に同意なのだけれど、キーワードとして残すとなると

  • キー・コンピテンシーのネガとしての自閉症
  • 放免されたところから責任の引き受けが始まること
  • 使用概念の中動態的な捉え直し

あたりかな。熊谷さんの本は他にも読んでみたいなと思った。

支配・被支配の関係から自由になることと、コントロールを手放すこと

 使用概念の問い直し、useとabuseについて論じられている箇所は、この本の中ではペンや車椅子を例に書かれていた。けれども、これは楽器でもあてはまるよなと思った。何かを使うとき、自分もその対象を使うことで変化している。ペンを使うときには、ペンを使うようにペンを持ち、またインクが紙に落ちるように手で動かす。自分自身もまたその使用によって変容を求められている。このときペンを支配している、と言えるだろうか?

 楽器もまた、弾くときに身体の変化が求められる。そして、自分の身体をコントロールしようとすればするほどにぎこちなくなり、往々にしてうまくいかない。自分-主、楽器-客、として楽器を支配したい、全てを思うように弾きこなしたい、そういう気持ちはやはりある。しかし、それだけでは行き詰まることがあり(練習でも、本番でも)、いかに自分の身体を楽にするか、コントロールしようという気持ちから離れて、出てくる音に対して集中する、そのリフレクションによって身体自身が勝手に協応してくれるに任せる、そういう時に上手く音楽を作ることができる。ことがある。こういうときは、支配-被支配という構造から自由になって、自分と楽器との合わさったひとつの「場」で協応構造が生まれている、と言えるのだろうか。

 世の中のプロフェッショナルな音楽家の人たちなら、自然と支配-被支配関係からは自然と逃れているのかもしれない。そんなことを考えずとも自然に。けれど、依然として、思うように弾きたい、楽器を思い通りに動かしたい、支配したい、という気持ちが生まれるのは致し方のないことのようにも思う。

 言及されていたのはアガンベンの「身体の使用」という本だった。読んでみようか。

小説

 しばらく、というかかなり長い間もう小説を読んでいなくて、どうしても小説を読みたい、という気持ちになっているけれど、いかんせん小説を最近読んでいないため何から手をつけて良いかわからず、本屋に行ったけれど何も買わずに帰ってきてしまった。消滅世界、は家にあったはずだ。
 なんでもいいからとにかく小説を読みたい。いつからか、この作家に心を委ねて大丈夫だろうか、と深く考えてからでないと小説に手を出せなくなっていた。