家の掃除について、他

掃除について

 家の掃除は気が向いた時にやる、という感じであったけれど、ちゃんと日にちやスケジュールを決めた方が良いのかもしれない。メンテナンス。
 職場の掃除は特段なんの不自由もなく行うことができるけれど、家の掃除はそうもいかない。なぜだろうか、と思った。たぶん、色々と割り切ることができない物事が、家の中には溢れているからかもしれないな。僕は出来ればどこかに取っておきたいタイプで、小学校の教科書なんかもまだどこかにあるかもしれない。母がそのタイプの人だったから、そういう性分なのかもしれない。
 かといって、全てを残しておくこともできないし、でも、流行りの断捨離というものにも、あまり興味がないというか、あまり良いなとも思えない。家の中は文学的な空間で、職場は経済的な空間なのかもしれない。記憶の蓄積や堆積をそのままに保存しておきたい欲望。そこは、自己の成立に関わる場所であるから。職場は、仕事のために行っている場所で、それ以上でもそれ以下でもない。不必要なものは捨てる、で解決するし、それ以上の関係性を自己と取り結ぶことは、あまりしたくないな、と思う。
 家の掃除は、改めて自分という人間を見直して組み直す意味合いがあるのだろうな。捨てて良いもの、残しておきたいものを判断することは、自分にとって良い選択をしたのか、悪かったのか、後悔があるのか、そういう判断を迫られるからだろう。だから億劫になってしまうし、うまくいかない時がある。
 今日はあまり掃除がうまくいかなかったな。

責任を一旦手放す

 なんであんなことをしてしまったんだろう、と悶々とすることがある。過去のことを悔いても仕方ないけれど、行為の結果の責任は自分にあるのだし、と考えてしまうのが常だ。
 いま國分先生の本を読んでいて、依存症からの回復やしういう機序について書かれている箇所、中動態の本なんだけど、「一旦免責することによって、だんだんと責任を引き受けることができるようになる事例がある」みたいなことが書いてあった。暇と退屈の倫理学の最後にも熊谷さんとの関係で、ヒューマンネイチャーとヒューマンフェイト、つまり自然と運命なのだが、一種の運命論的な考えを経由することで、責任を負うことができる、という理路になっている。
 たしかにな。俺のせいじゃ無い、なにかがどうにかなってそうなってしまったんだ、仕方ないじゃ無いか、どう頑張ってもそうなってたんだ、と思うこと。まぁ良いじゃねぇか、仕方ない。たまにはそうやって自分を放免することも必要なんだろう。「なぜ自分は…」という考えは、はっきりとした意志なく選んだ選択、行為をも自らの意志によって行ったものに事後的に変換させられてしまう。
 たしかにな。大事な考え方かもしれない。