パラリンピック開会式について

パラリンピック開会式

 江川紹子さんが批判しているのを見た。「良かったんだから細かいこと言うなよ」という感想の方が多そうだった。たしかに演出は良かったと思うし、ストーリーもしっかりしていて、見る人の心を捉えることには成功していたと思う。

 まず、私も疎いのだけれど、障害学という学問では障害を持つ人たちと社会がどう関わってきたかについて、医学モデルから社会モデルへ、という変化として捉えている。医学モデルというのは、「健常者に近づこう、障害は障害者自身がもっているもの」とする考え方。熊谷晋一郎さんが書いていたことの中では、かなり苦労して身体の訓練をしていたらしい。これが70〜80年代を境として、「障害って社会の側にあるよね」と受け止められるようになり、バリアフリーなどが進められてきた。(かなり雑な整理かもしれないが、この知識だけでも随分と色んなものの見え方が変わるので大切なことだと思う)

 今回の開会式の演出で言えば、片翼の飛行機が飛ぶ、ということを「健常者と同じように飛ぶ」ということを目的にしてしまうと、それは70〜80年代までの医学モデルになってしまう。だから両翼で飛ぶということにはせず、片翼で飛ぶというのは医学モデルに回収されない演出だったのだろうと理解できる。

 もともと、パラリンピックという大会自体が医学モデル的な考え方と相性の良いものだということも指摘されて良いだろう。また、演出の中で統一感が求められるということも、何らかの「一」なるものに収斂させることであるからして、多様性の表現というのは難しいものにならざるを得ない。断片として、個々のパフォーマンスを散りばめるだけでは、今回のような賞賛は起こらなかっただろうし、観るものの心を掴むためには大きなストーリーが必要だ。それは必然的に一なるものに回収されやすい、という性質をもつ。その中で、個々のパフォーマンスがその大きな物語とは別様に描かれていたことは、多様性のメッセージを汲んだ演出となっていたように思う。

 飛ばなきゃいけないの、という指摘もあるが、これはパラリンピックという大会がそのような大会であることから、難しいなと思う(もちろん、片翼に代わるなにかスーパーな飛び道具で飛ぶ演出も考えられる。が、競技大会の性質上、そこまでスーパーな飛び道具を使う案はあっても外されたのではないかと思料する)。

 最後に彼女を飛ばしたものがなんだったのか、何が風を起こしたのか、布袋寅泰がいた事がとても大きいと思う。オリ/パラ関係のない社会全体としての「わたしたち」から受け取った風と、ちょっとした当事者の勇気によって巻き起こされた風に乗った、というメッセージを私は読みたいなと思った。

 江川さんの「飛行機は安全に飛ぶことが第一」については、未だによくわからないままであるが……。