読書など

集英社新書の利他とは何か、を読んだ

この本の4章にある國分先生の論考を読んだ。

 近代社会に生きる人間に要請される意志ある主体という装置と責任概念。これはまったく普遍的なものではなく、古代ギリシアでは主体に意志は想定されていなかった(確かに詩人には意志がなく、詩人の言葉は神様から預託されたものをただ表したものと読んだことはあった)。意志ある主体の発生と、能動-受動の概念の発生はパラレルなもので、アレントを引きながらは、それはキリスト教世界の成立とともに発生し、中動態概念は喪失されていったとする。

 ヴェルナン『ギリシア悲劇における意志についての試論』から人間的因果性と神的因果性は、ギリシア悲劇においてはどちらもともに肯定されていた、とするところから、神的因果性によって自らの意志を離れたところから行為を客観的に見る(外在化する)ことによって、人間的因果性という行動の責任を受け入れることができるようになる、と論じている。そして、この引き受ける責任(responsibility)を誰かに行為の始点としての責任を帰属させる帰責性(inputability)と取り分けつつ、中動態概念として、パッシブで過程の中にあるパフォーマティブな責任概念を取り出し、これこそが利他に他ならないと論じている。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 とても面白いなと思った。医学書院の中動態の本はまだ読んでないけど、want欲するという動詞が中動態だということと、意志概念は因果関係を切断したところに生ずるところは、欲望に駆動される主体を扱う精神分析から論じるとどうなるんだろう、とか、責任と帰責性を区別するところはとても面白かった。民主主義の本も書いてる國分先生のだから、政治家の答弁が想定に入っていることは十分に考えられることでそういう頭で読んでいたんだけど、この運動の中にあるパッシブでナイーブにも感じられる責任概念はとても面白いと思う(責任のresponsibilityを応答可能性として、呼びかけに対する応答とする議論は他にもあるけれど、中動態概念として捉えるところが國分先生の白眉だろう)

 この本の一番最初の伊藤亜紗さんの論考もとても面白くて、うつわ(器)を比喩として使うのが、あまり馴染みがないものだったので素敵だなと思った。陶器には疎いんだけど、料理を盛り付ける器について色々と考えてしまった。素敵だな。

 コロナでも、オリンピックやったからいいだろ的な感じでなし崩しに色んなイベントが強行されたり、補償がないから店を開けざるを得ない等、生き延びることと社会に生きるものの責任を天秤にかけて行動するような部分がたくさん出てきている。これから2050CNや(あまり積極的に肯定はできないけれど)SDGsなんかに取り組んでいかないといけない中で、社会の中でどう責任ある行動を皆でとっていくか、という議論の際に、何か新たな共有できる概念を育むことができるだろうか?(このコロナの今の状況を見ていると難しいと感じるが)この本はそんな問いかけの起点になるような感じがする。