文化芸術が人生に必要なことと、文化芸術について語ること

文化芸術が人生に必要なことについて

 Twitterハッシュタグポリティクスのキャンペーンが張られていたことについて。文化芸術は必要だと言われることに異論はないです。たしかにそう思います。映画、音楽、演劇、コンサートホールで行われる催し、詩、文学、図書館。絵画、博物館の展示。私はこれらが大好きであるし、図書館が閉まってしまうことについては率直に悲しく思っています。コンサートホールが閉まってしまうことも、文化ホールが閉まってしまうことも、予定されていたプレイヤーが演奏会を取り止めないといけないことも、演劇公演が中止されることも悲しく思っています。でも、このハッシュタグ、厳密には文化芸術という言葉を使うことについては首を傾げるというか、躊躇いがあります。昨年の春、平田オリザさんの一件があったにも関わらず今回またこのようなハッシュタグポリティクスが行われていることに首を傾げてしまいます。個人的に言いたいことには100%同意するのですが。

 そんなに複雑な話ではなくて、まず、文学芸術を上述のエンターテイメント産業と詩文芸、古典芸能に限って用いてると捉えられかねない点。これは私も音楽をやっているからわかるけれど、「自分たちが日本の文化芸術を支ている!」意識が強いのかはわからないけど、狭い定義で文化芸術という言葉を使っているような気がします。なまじ役所に勤めていると、このあたりの感覚について一般的な人たちとの乖離について気付かされます。「そんなこと言ったら一次産業や二次産業も日本の文化なのだし芸術だよね」という冷ややかな視線を必ず浴びます。自分が思っているより、興味のない人たちの方が世の中には圧倒的に多い。人為の営みは全て文化、ひいては芸術なのに何言ってるの?というツッコミが入ってしまう。私も経験があるのですが、大きな言葉で語らず、自らの業界を他業界と同列に配置しつつ、あくまで「仕事して金稼がないと生きていけない」を軸にメッセージを発する方が共感を得やすいのではないか、と思います。もちろん、これは作り手側に立って考えた場合です。

 また、芸術至上主義までいうと極論ですが、現代のクリエイター信仰というか芸術家を天才と崇める風潮(これはクラシック界ではベートーヴェン以降、芸術家の地位向上とともになされていったと読んだことがあります。今にも続いてますよね)が今回の運動とも絡まり合っている部分もあるのかな、とも。作り手側も、受け手側にも、有り難がられるファンを抱える側と、有り難がるファンの側とがある種の信仰で結びつきあってる故に盲目的になりやすい部分はあるかもしれません。これはネガティブな意味合いではまったくなくて、こういう結びつきがあるからこその生きがいや心の支えとなって、私たちの生活をささえてくれている。また、だからこそ奪われることに対するストレスも大きい。作品の受け手側は、単にネットやストリーミングサービスで代替出来るという代替可能性以上の意味を、観劇施設・公共ホールの無観客要請に読み取ってしまう。

 少し脱線しました。

 シェークスピアの時代には演劇は反体制的な扇動となり得る危険なものだから、と禁止されていた時代があった(日本もまた同じく、東京芸大には演劇を専門とする専攻科がありません)ように、為政者は文化を野放しにすることを嫌う傾向にあります。スポーツを振興することと表裏一体です。しかし今回の宣言期間における要請については、「文化を野放しにすると」という意図があるかどうか、わたしにはわかりません。おそらく無いのではないかと思います。それよりかは「映画も本もコンサートも、全てアマプラ、ネトフリ、YouTubeで代替可能っしょ」という代替性があるかで政策決定しているのではないか、と考えています。浅はかな、という感想を持つことは私も同じですし「いやいや実際のプレイヤーについては」と思いますが、そこは補償しましょう、というロジック(あくまでロジックですが)だと思います。これも、あくまで稼業に対する補償、という考えで、ここに文化人や、上に書いたように要請以上の意味で喪失感を感じる受け手側の人たちとの乖離が生まれているように思います。

 ここまでは前段で、前から気になっていた「文化的なるものへのヘイト感情」について少し考えたいと思います。わたし自身、職場やいろんなところで感じてきたことだからです。世の中の人たちの中には「いまコンサートホールでのコンサートなんて必要ないよね、YouTubeで十分」と思っている人たちの方が多いわけですが(私も同じような言葉をたくさん浴びせられてきました)、その中には「残念だけど」「仕方ないよね」という感情よりももっと奥深い憎悪を感じ取ることもありました。一度や二度ではなく。ここにすごく引っかかっていました。
考えたところ、

  • 文化的なるものに触れる、理解できる素養があるということへの嫉妬感情
  • そういうものに触れることができる時間的余裕、そういう育ちをしてきた社会階層に属していることへの妬み
  • お金持ちの道楽

みたいなものはすぐ想像できます。あらゆる文化の敷居が下がって誰もがアクセスできる時代になったとは言え、触れることのできる文化は依然として属している社会階層に規定される部分があります。ファッションについても同じで、趣味について語ることが自分の属している階層について語ることになってしまう。そういう難しい時代に2010年以降はなっているという認識です。結論を先取りして言えば、所得格差から来るヘイト感情というものに文化的にも分断が生じているのではないか、ということです。だからこそ、(私はハッシュタグポリティクスのような政治運動はあまり好きではありませんが)文化芸術について語ることはとても難しく、それを社会運動として世論を巻き込んでいくのはとても難しい状況なのではないか、だからこそ慎重なオーガナイズが必要で、そのオーガナイズを効かせるためにTwitterは不向きなのでは無いか、と思います。

 ここからは余談ですが、この文化的なるものに対するヘイト感情には、ミソジニー(女性蔑視)感情と通底する構造があるのではないか、とも時々考えます(そういう論文や書籍があれば読みたいと思いつつ読めていません)。文化的なるものへの抑圧と、女性への抑圧。完全に男性社会に属する者としてしか書けないのですが、どちらにも恐怖心というものが奥底にはある気がしていて、恐れるが故に抑圧する、そういう構造があるのではないか。だからこそ声を上げ続けることは重要なことで、少しずつしか社会を変えることは出来ないけれども、何かに従属するものとして存在するものから、それ自体として存在するものへ、存在を勝ち取って行かないといけないものなのかもしれない。このあたりについては不勉強なので、もう少し本を読んだりしたいと思っています。