食べられないものがあることについて

 僕はアトピーだから、食べられるものに制限のある生活の方が長い。幼い頃は大豆、卵、小麦、等々。高校の頃は米がだめになった。今でも色々ある。時々によって色んなものがダメになる。だから昔から料理の味付けは塩と胡椒だけが多い。砂糖や醤油はほとんど使わない。

 だからか、甘辛いものを食べると、とても身体に悪いことをしているような感覚になる。道徳的ではないことをしているような。今日、お昼の仕出し弁当で肉じゃがが少し入っていた。お砂糖と醤油がしっかりきいた甘辛い味のもので、じゃがいももにんじんもしっかり醤油の色がついていた。大豆がダメとはいえ、今ではこれくらい食べてもどうもないけれど、でもこういう味はお外でしか食べることのない味だから、いけないことをしているような感覚になった。思えば、家族で旅行に出かけても、食べられるものと食べられないものをより分けたりしていた。調子に乗って食べてしまって、夜中に身体が痒くなることもたくさんあった。かいてしまって、結局は痛い思いをするのだけれど。

 時々、料理というものにこだわりがなく、「1日これだけ食べていれば栄養的にも健康的にも腸内環境的にもメンタル的にもOK」というものがあれば、それだけ食べて過ごしたい、と思うことがある。味なんて求めない、美味しさも求めない。ただ体が痒くなったり湿疹が出来たり肌が荒れたりしなければそれだけでいい。ふと、そういう考えがすんなり入ってくるのは、こういう経験からなのかも、と思った。薄味で、そんなに美味しくはないけれども身体には悪くない、むしろ身体に良いもの、という食事で育ったから。

 コロナな世の中になって、少しみんなが自炊を多くし出してSNSでも料理のツイートが目につくようになり、料理はとても楽しいし素敵なことだなと思いつつ、そういえば自分は食べるということについて、少し人とは違う感覚を持っているのだと自覚させられたのだった。

 食べられないものがある、ということは自分にとって何かを制限されているというようなものではなく、とても自然なことで、誰かが好きなものをお腹いっぱい食べているから(たとえば甘辛い肉じゃがをお腹いっぱいたべていたとして)といって、辛くなったり、悲しくなったり、羨ましいな、と思うこともない。自分には食べられないものがあったり、食べ過ぎたら身体に出てしまいやすいという自分の身体があまりに当たり前過ぎて、そのことに関して何かハンデを負っている感覚がない。あるとすれば、職場で連れ立ってラーメンを食べに行ったり、飲み屋でビールを強要されたりする時だ。時々ならいいけど、ラーメンも、ビールも、アトピーの僕にはあまり勧められる食べ物じゃない。そういう時、「すみません、普段から気をつけているので食べたくないんです」とはなかなか言えない。

 いま、世の中でいろんなところで色んな人が、これまで我慢してきたことを、権利として主張している。こんなことまで主張するんだ、された方は大変だろうなぁ、でも確かにそうだよな、みたいな感想を抱くことが多い。そういう点では、僕のこの食事に関する感覚も、そういう類のものなのかもしれないな、と、ちょっと思ったりしたわけだ。特に何がどうというわけではないけれど、確かに、当たり前のように我慢をしてることではあるかもな、と。でもそれって、身体のハンデで、特に何か配慮を求めるようなものでもなく、何なら食物アレルギー用の薬だってあるわけで、全く誰かになにかを主張する気にはなれないのだ。あまりに当たり前に付き合ってきた身体のことだから。