日記(2021年3月9日)

 昔のTwitterはもう少しゆとりがあったように思うけれど、最近のTwitterは政治化が進んでとても居心地が悪く感じられてしまう。息苦しい、閉塞感。ものすごい閉塞感が漂っている。各人が何か有益なことを言わなきゃ、意味のあることを言わなきゃ、役に立つことを言わなきゃ、という雰囲気がものすごい感じられて(知らないけど、たぶんフォロワーを伸ばすためのプロフィール術みたいなものがあるんだろう)とてもじゃないけど気が休まらない。こんなところでも生産的であらねばならない、みたいな空気。ひとつにはコロナのストレスもあるのだろうけども、貧しくなって、余裕が失われたということなんだろう。2010年前後の時代の空気と比べると、すっかり全然変わってしまったように思う。いまの日本は、ゆっくり衰退していくことが見えている中での勝ち馬に乗って最後の悪あがきをする時期で、少し貧富の差が拡大して、そのあとはまたみんなで貧しくなっていく。衰退国家あるあるだからもう政治家のワイドショー的な不祥事的な話題にはなんとも思わないけれども、その勝ち馬に乗ったと思ったら泥舟だった、というのがオリンピックだった、ということになるのだろうか(という予言は成就するだろうか?)。
 個人が全面に押し出されていた時代の空気から一変して公衆衛生の時期になり、国家機構や公権力が相対的にせり出してきた中で、たとえばはあちゅう的な人たちがどういうポジションをこの社会の中で取っていくのだろうか、ということについては少なからず興味があったけれど、あまり有益な問いにはならなかったのかもしれない、とすっかり存在感を消してしまっているはあちゅうのアカウントを見て思ったりしている。

 僕はといえば、なんとか毎日練習時間を確保して、その後少しロマン派の勉強をしたりしている。そもそもロマン主義とは何か、ポエジーとは何か。1830年代というのはショパンがパリに来て、ベルリオーズ幻想交響曲を書いて、そろそろベートーヴェンが亡くなって、ゲーテも晩年で、シューマンやリストがいて、というとても魅力的な時代だ。シューマンのfantasieはそんな時代の最中、1836年に1楽章が書かれている。ノヴァーリスやシュレーゲルがロマン主義を打ち立てた1800年前後の時代から30年。いろいろと本や論文を斜め読みしてぼんやりと時代の空気感は掴めてきたような気がしている。廃墟というモチーフについて一冊本を読んでいるところだ。もう少し、シューマンという人となりについて知りたいと思っている。内向的な、物静かな人だったのだろうか?