引き続きシューマン

 三楽章はとても優しく感動的な楽章だけれども、幸せな時間を永遠のものとするために時間を止めてしまいたい、止めてしまおう、というような物語であるような気がしてきた。つまりそれは死であるわけだけど、最後はそういう幸せな終わり方をする曲なのかもしれない。死と幸せとは矛盾する概念であるように思ってしまうけれども、愛の成就は死でもってしか完成しないものだ。

 そう思ってこの曲全体を見返してみると、一楽章の冒頭から死の腐臭(というととてもネガティブな響きだがそうでもない)がぷんぷんしているようにも思えてくる。絶望と言い換えてもいいかもしれない。一方の淵にそれ(死や絶望)はある。特異な引力と魅力をもって惹きつけてくるそれにあらがいつつ、生を指向し、愛を渇望して生きる主体。完全なるものを手にしたいと願いながらも(ロマン主義の時代にあってはそれは遠く離れた過去のギリシアに求められていた)永遠に不完全であるしかないことに対する不全感や絶望、どうしようもない種類の苦悩。

 英雄の調性で書かれた二楽章は突き抜けて明るい要素も持ち合わせている。勝利、満ち足りた幸せ、手のひらの内に収めることができたもの。しかしそれは朽ちゆく身体を持つ人間にとっては束の間の出来事でしかなく、全ては過ぎ去ってしまうものでしかない、という諦念、絶望、刹那の感情。手に入れたと思ったものが、一度手のひらを開いてみると失われてしまうような瞬間的なものでしかない、という気持ちも通奏的に流れているように思う。二楽章はこれほど明るい楽章であるにも関わらず。意識の中からそうした不安や強迫的に繰り返される不安・不全感から逃れよう、捕まるまいと必死に逃走するかのようにこの楽曲は幕を閉じる。

 永遠の安らぎというこの世では到底実現不可能な事柄(それは幻想と言い換えても良いかもしれない)に対し、楽曲という有限な形式表現世界においては、("完全なるものへの合一"の達成に)一応のところは成功したのではないだろうか。そんな感想を抱いた。しかしこの感想も、また取り組むうちに移ろいでいくのだろう。


SCHUMANN Fantasie in C major op. 17 | Yeol Eum Son (손열음 | 슈만 판타지)