出勤/アリストテレス

 昨晩はあまりよく眠れなかった。仕事のことを考え始めると、無数に頭の中に仕事のことが浮かんできてしまい、早く寝ようと思っているのに眠れない、みたいなことが多かった。特に昨年の暮れはそんなことばかりだった。瞑想アプリやお酒、NHKラジオと色々と聞いて寝ているのだけれども、最近はNHKジャーナルを適当にかけて寝ている。ラジオ深夜便は流れる曲がアップテンポの曲が多い気がしていて(昔はそんなこともなかったような気がする)眠るのには不適当な気がしている。三四郎の朗読はかなり好きだけれど、一本が短すぎて寝付くまでに終わってしまう。
 ともあれ、あまり寝付けないことで自分を責めなければ夜の2時や3時にはだいたい寝ているので、問題もないだろう。

 あまりもうコロナのことについては書きたくないのだけれども、仕事柄日々触れているから考えないわけにはいかず、かなり気を遣っている。SNSでは周りの友人らは一切コロナについては呟かない人もいて、意識して話題に触れないようにしていることがわかる。そういう政治的な話題が倦厭されるということもあるし、意図的に距離を取らないと、メンタルをハックされてしまうような依存性もある。

 職場では自分ごととして国難にも似た状況を引き受けている人が少ないのではないかと思ってしまう。思ってしまうだけで、各人はそれぞれにそれぞれの引き受け方をしているのだろう。それでもときどき「心の底では私のせいじゃ無いし」という思考が透けて見えるタイミングがあったりする。こういう感覚は主観から逃れられないものだ。今日の緊急なんとか宣言についても「なんだ飲食店だけか」という空気感もある。なんというか、もう、色々と悲しい気持ちになることが多い。悲しくなっても仕方ないのだけれど。
 「社会の構成員の何割かが利他的な行動を取れる人であれば共同体は存続する」みたいな話を内田樹が書いていて、それが何割だったか忘れてしまったけれども、今回のウイルスについてはそれはもう少し大きい数字でないと難しいのではないだろうかと思う。40人学級であれば15%というのは5,6人だが、しっかりした人が15%もいればそのクラスはなんとかなるような気もするが、今回は2割が感染を広げる状況でも厳しいのだ。

 結局はなるようにしかならないのだろうが、やりきれなさばかりが募る。私が抱えたところでどうしようもないのだけども、社会の成員としてどう周りを動かしていくかということをよく考える。腹を括る、とか、身体を張る、ということが人対人の権力関係のコミュニケーションでは肝になることがあるが、案外身体を張れる人間というのは少ないものなのだな。身体を張るというのは、文字通り身体を張ることだ。ボリスやメルケルがある方面で賞賛されるのは、彼らが身体を張っているように見えるからだろう。全裸で腹踊りしてみろと言われたら、出来そうな気合がある。

 人文系が持ち上げられる世界まであと少しというところまで来ている。まだ『アリストテレス 生物学の創造』は上巻の2/3を読み終えたくらいだが、とてもとても、とても面白い。途中、アリストテレスはこう書いているー「自然のすることにはむだなことはない」