東京という異質な都市について

 今日も朝起きてから5kmを走った。どうしても東京に出なければならないことがあり、電車で東京方面に向かい、用事を済ませた帰りの電車で「そういえば」と思い出したことがあったのでiPhoneを取り出してはてなブログのアプリを開いた。

 東京を離れてもう6年が経つ。とは言え、今もそれほど離れた場所に住んでいる訳ではないが、東京という都市の異質さについては、なんとなくではあるが、質量を伴ったものとして心に抱ける程度にはイメージを持つに至っている。それを私は普段は好意的なものとして受け入れている。それが、今はポジティブ・ネガティブ両面に引き裂かれるような気持ちとなっている。どういうことか。それは、東京が近代を超えた都市であるという普段からの認識に起因しているように思う。

 コロナウイルスが蔓延する世の中で、各国政府の取り組みがテレビで報道される度に私は違和感を覚えずにはいられなかった。それは次のような驚きの感覚だった。

ポストモダンと言われて久しくある世界で、未だに国民国家という統治の枠組みがこれほどにも力を持っていたのか。

 国家による統治は(深入りはしないが)ウェストファリア体制以降のヨーロッパの仕組みである。言わずもがな、二度の世界大戦や冷戦もこの枠組みの中で行われ、依然として国際関係は国家を単位として語られる。一方でGAFAのような巨大IT企業の恩恵を人々は受けている。平時であれば、より我々の生活に深く根付いているサービスはGAFAの方で、国家や政治が問われることは有事の際である。その有事の際であれ、自分のこととして捉える者はその当事者か、イデオロギーに関心を持つ一部の人-そう考えてしまっていた。資本主義が席巻する世界にあっては、国家という枠組みは後退し、防衛・教育・福祉といった本来であれば公的機関が担うべき分野にも資本は進出し、人々の意識から国民国家という政治・統治の単位はもはや形骸化しているのではないか-それが感染症対策となった途端、一気に国家という単位が息を吹き返してきたように映ったのである。

 東京という都市は、この国家という統治機構から一番離れた場所にあるのではないかと思う。それは私が東京で過ごした時間が学生時代の6,7年間限りであったからかもしれない。仕事として東京で過ごしている人たちはまた異なる感覚を持っているかもしれない。しかしながら、東京で7年ばかりを過ごし、今も行き来をし、生活の場としては東京を離れている身からすると、東京は娯楽や刺激に溢れ、地縁的共同体感覚という鎖が良い意味で切り離されてた異質な場所である。この感覚を、東京で生活している人が自覚することは難しいのではないか、と東京駅から電車で20分離れた場所に住む私は思うのである。

 この異質さを異質さとして享受できたのは、東京から離れて東京を相対化してからだったように思う。これが東京の良さであり、ラディカルな部分であり、息のしやすさであると捉えていた。父権的なガバナンスが効いているかと問われれば、その周囲の三県に比べたら劣るであろう。またそれも、ある評価軸から捉えればポジティブに評価できる部分だろうと思う。しかしながら、感染症対策という国家のプロジェクトを遂行する上では、このようなガバナンスが効かなくなった異質な都市は足を引っ張る存在になる。Yahoo!ニュースなんて見ないしテレビも見ない、新聞も読まない。この点において私は引き裂かれるのである。統治から逃れうる自由な場所であるというポジティブな評価と、対ウイルス対策にガバナンスが効かせにくい場所であるという点である。小池百合子がフリップを使い、都民へ呼びかけを行なっているのを見ながら「いや、こんなフリップで行動変容が期待できるような都市・人たちではないだろう。誰が見ているのだろう?」と思う一方、「少しは学級委員の言うことも聞いてくれ」と中学校の教室で叫ぶ学級委員の気持ちに引き裂かれる。

 私はそれほど海外旅行もしない。大阪にも随分と行っていないし福岡へも同様である。ロンドン、ニューヨークには行ったことすらない。だから、この感覚もどこまで異質なもので、どこまで肌感覚として理解されるものか自信は全くない。しかしながらこの1年のあいだずっともやもやとした感覚として持ち続けていたものであったから書き起こした次第である。