無題

よくシューマンのop.17を聴いている。ついこの前までシューベルトのさすらい人に取り組もうという気持ちでいたのにも関わらず、既に私の気持ちは移ろいつつある(なんといとも簡単に気持ちは移ろうのだろうか!)。先月の末まで、一年間シューベルトに取り組んでからシューマンに取り組もうと考えていたのだった。その次に再びベートーヴェンを、と(いや、もしかしたらリストのロ短調ソナタが弾きたくなっているかもしれない)。しかしながら向こう何年も寝かせてのんびりしていいものか、何が起こるかわからないのに好きな食べ物を最後に取っておくようなことをする必要があるだろうか(技量的に取り組めるのならば)と。一生のなかで自分の弾きたいと思える曲がすべて弾ける保証はどこにもなく、気持ちは移ろう。取り組みたいと思う時に取り組むのが一番ではないか。


職場で何人かと他愛もないお喋りをする。ちょうど「暇と退屈の倫理学」を読み返しているところだったから、状況がハイデガーのいう退屈の第二形式のようだ、と思った。私もこの退屈の第二形式は肯定的に捉えている。何かに際して退屈するというのはとても人間的で、正気だ。まるで友達との会話が退屈であるかのように読まれるかもしれないが、そんなことはない。とても大事な仕事後の気晴らしだった。とてもまっとうで、社会的で、健全だ。しかしながら、シューマンを聴いていたいという気持ちが頭の片隅にあった。


作曲家の書いた通りになぜ従わなければならないのか、という批判がある。普通のクラシック音楽家であれば、いや、再現芸術であっても、個々の演奏は譜面を一回ごとに立ち上げる創造的行為なのだ、と反論するに違いない。しかしその反論でもって、上述の批判を無効にすることは出来ない。書かれた譜面には原典がある。とても一神教的な世界、それがクラシック音楽の特性の一つと言えるだろう。個々の一回ごとの創造はその一神教的な性質のバリエーションではあっても、その世界から別様に逃れるような性質のものではない。ここでの演奏ごとの差異は同一性の二次的な要素として現れる。「○○のベートーヴェンは良い」「○○と○○交響楽団ベートーヴェンこそ○○だ」みたいな言葉も聞かれる。100通りのベートーヴェン、というのも一神教的な原典が措定された上での差異に他ならない。この批判を受け止めるのであれば、例えばベートーヴェンの熱情を演奏するとして、まったく想像できるような演奏とは別のものを演奏しなければならない。だが、そんなことが果たして可能なのだろうか。



初めて鑑賞する曲は、自分にとって慣れ親しんだものではないという点で不気味なものだ。どこでどのような音がなるのか、どこが曲のクライマックスなのかわからない。通り過ぎ去って初めてそのことがわかる。作品とのはじめての出会いは、快か不快かと言われれば不快なものだろう。自分の慣れ親しんだ世界に異物が入ってくるような経験たり得るからである。ある場合には、それは人に思考を迫る。慣れ親しんだ世界に亀裂を入れ、その亀裂を基点として世界を組み立て直さなければならなくなる。それを含んだ″慣れ親しんだ世界″を再構築する。