無題

ある時期にアドラーが流行ったのも、いま半沢がウケているのにも理由がちゃんとあるのだろう。この四半世紀、格差は確実に広がっていて、雇用も流動的になった。非正規労働者も増えた。不安が蔓延していることと関係がありそうなことはいくつでも挙げることができる。アドラーがあの時期に受容されたことも、こういう社会事情と不可分とは言えないだろう。嫌われる勇気には引きこもりの人との対話が出てくるけれど、アドラーの処方箋として一番大きいものは認知の枠組みをメタに捉えて目的論の立場に立つことだろう。これはある認知を相対化させる点で意味を持つが、どの認知の仕組みにコミットするか、その方法論は宗教者のそれやブラック企業の洗脳と似たようなものだ。ある意味では今を生きるために自分の認知の仕方を歪めるための方法とも言えるし、だからこそ選びたい認知の仕組みをインストールすれば死ぬ間際まで人は変われると言う(アドラーの場合それはライフスタイルと言っている)。勿論アドラーは共同体感覚などの言葉である程度の持つべき認知枠組みを方向づけているから、その枠組みに合致しないものには否と言うのだろう。けれどもこの認知の枠組みずらしというのには、こうした危険性が孕んでいる。その大元には、信じるものがない時代に何にコミットして生きていけばいいのか、という大枠の問題が背後に控えている。

原因論を棄却し目的論の立場に立つということは精神医学の潮流でもある。DSM5などの診断マニュアルによって精神医療は風邪や骨折といった臨床医学と同じ土俵で扱われるようになった。そこにあるのは症状であり原因ではない。病の脱個人化。脱個人属性化。先のアドラーにしても精神医療の脱精神医学化も、功利主義的な考え方と親和性がとても高い。働ける人であらねばならない、稼げる人であらねばならない、役に立つ人でなければならない、またそういう人間づくりを国家は政策として行っていかなければならない、という流れがある。心の病というものは本来とても個人的なものだ、と言うことが時代錯誤に感じられてしまう。もう抗うことはできないのだろうか。