月曜日の朝

休みを取った月曜日。昨晩はTwitterのDMで心のひだを合わせて、そっと心の穴の縁を触り合っているうちに寝落ちしてしまった。2時半頃だっただろうか。

起き抜けに水を飲み、胸に筋肉痛が来ていることを確認した。大腿四頭筋とハムにも痛みを感じた。どんよりとした今日の天気のような重石が脚についているような、そんな筋肉痛だった。お酒がまだ残っていて頭の奥の方がずうんと重い。重い脚でキッチンに立ちインスタントコーヒーを煎れて換気扇の下で煙草を吸う。いつものことだ。別に換気扇の下で吸ってもベランダで吸っても出てくる煙は一緒だろう、と思うが細かいことは気にしない。消し忘れたラジオからは阿佐谷姉妹のお喋りが聞こえる。ダバダバダ。テレビのワイドショーは話題選びに困らないからディレクターは心が軽いだろう、なんてことを考えながら仕事のメールを確認し、また換気扇の下に戻る。

確かマルクス=ガブリエルはこのコロナに侵食された日常を戦争の比喩で語ることに反対していた。ウイルスにとって人間は敵ではなく友達で、レストランで、売春宿だと。生態系から見ればもっともなことだ。人間は王様かもしれないが、それは一つの見方に過ぎない。ただでさえケッペンの気候区分上で既に日本の大半が亜熱帯に入ってしまったのではないかと思ってしまうくらい水害が多発してるのだ。悲観的にならざるを得ないような物事ばかりが頭に浮かんでは通り過ぎていく。浮かんでは消え、浮かんでは消え。残っているのはアルコールの残った頭と筋肉の痛み。

昼から人に会う。こわごわと、きっと大丈夫だ、何もない、と信じている。でもきっと、1週間くらいは自分の体調に自覚的になってしまう。後遺症の話がニュースでちらほらと散見されて怖いなと感じる。神の意向でちょっと指の当たったものがパタリと倒れる(その確率は高めに見積もっても1400/14000000として0.0001%、1万人に1人だ。実際はもう少し高いかもしれない)、そんな絵を想像する。怖さに絡みとられている。

距離を取ろう、というのは巷で言われている距離のことではなく、様々なニュースで語られる言葉からの距離のことだ。神経症的に、半ば強迫観念のように毎日発表される数字に一喜一憂する毎日から距離を取ること。離れること。