そうじをする

 そうじには悲しみが伴うものだろうか。ゴミ捨て、というよりも掃除だ。掃除には負の感情が伴うものだろうか。少なくとも私は、断固とした気持ちで、心を鬼にしなければ、掃除を完遂することができない。大きなざっくりとした雑な計画が必要だ。
 PDCAを回すタイプの掃除は別になんてことはない。これは日々のメンテナンスに関わることだ。大きな構造は崩さずに選別していけばいい。選別して廃棄して、また選別して廃棄して、否定神学的に「残しておく価値があるもの」をしぼっていく。このような作業は苦しくはない。
 しかしながら、部屋の模様をガラリと変えてしまうような掃除は、そのような「綺麗な部屋という遠くにある一点」を目指して、あらゆる要素をスリムにしていくメンテナンスの仕方ではどうにもならないものだ。ドカドカと大きな荷物を捨てていかないといけない。クリスマスツリー、ジャングルジム、鉄棒。すべり台もあった。押し入れの中に入ったままだった。あるいは書籍についてもそうだ。昔の教科書、参考書、辞書。大きなものをどんどん崩していかないと、変化は起こせない。
 否応無しに過去へと気持ちをいざなわれてしまう。まだ両親が元気に生きていた頃、私が幼かった頃のこと、ほとんど記憶にはないが幸せな家庭だったと思わせるような物を捨てること。そういった記憶そのものを捨てなければらないこと。

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 古いものを捨てることに対する躊躇いについて。
 例えば、いま掃除をしていて、1968年製くらいのシャープのテレビが出てきた。1998年くらいまで家で使っていたものだ。友達の家が普通のブラウン管テレビになっていくところで、僕の家はまだガチャガチャと回すタイプのテレビだった。こだわりがあったようには思えないけれど、「まだ映るから」と使い続けていたのを覚えている。

 そんなことを覚えていたから「これは取っておいてもいいかな」と思ってしまった。映るか映らないかはあまり関係なく、幼い頃の記憶を取り結ぶものだからだ。馬鹿げているのだろうか。でも、場所が許せば、これくらい取っておいてもいいのではないか、と。同様の理由で母が使っていたミシンも置いておくことにした。テレビは父に、ミシンは母に結びついている。特に考えて選んだわけでもないが、今こうして書いてみるとそのように整理できるような気がする。

 古いものは権威と結びついている。使えるならわざわざ新しくしなくても使えばいい、というふうに言われて育ったから、自然とそうなったのかもしれないし、クラシック音楽をやっていることもどこかで価値観の形成には影響しているかもしれない。出来ることなら古いものを使い続けたい、それが善である、というような。保守的な考え、というと身もふたもないけれども、そういう側面はあるのかもしれない。

 だからか、私はまだ父がつかっていたものすごく大きな机を使っている。マンションに置くには大きすぎる。奥行きも幅も。高級家具、というわけでもない、昭和の時代のヤマハのシステム家具っぽい感じだ。昔、戸建てに住んでいたときには二階の父の部屋にあった。思えば、マンションに引っ越してくるにあたってほとんどの家具を捨てたのだ。そして、今私たちはさらに一つの家具を捨てようとしている。父の机を捨てたら二つになる。捨ててもいいのだろうか、と戸惑う。せめて、祖母の画集や句集は残しておかないと、着物は残しておかないと、という気持ちに捉えられてしまう。