誹謗中傷

私の知り合いや友人には、匿名アカウントで誹謗中傷をするような人たちはいないと思っているけれども、実態はもっと複雑なのかもしれない。

そういう心ない言葉を投げかけないといけないような人たちには、何かしらの切実な理由があるのだろう。その人自身が生き延びるためには、そういう立ち位置を取って、その言葉を投げかけないといけない、という切実な理由。そう考えてしまうのは、私が性善説の側から人の心を見ているからとも言える。

何かに不満を抱えて生きていて、なにかのせいにしたい、誰かのせいにしたい、という気持ち。そののっぴきならない状態の中で、一つ、自分にぴったりな世界観を提示してくれる物語にすがるというか、その物語を生きることにしてしまった人たち。「ああ、自分が苦しいのはそういう理由だったのか」と、心の不安をすっぽりと埋めてくれる物語。これはオウム事件の時にも語られてきたことだ。信じてしまうのは、個人の責任とも言い切れないし、政治の責任かと言われると、そうとも言い切れない。


誰もがそのような心的状態に置かれて、そのような小さな物語を信じてしまう可能性があると私は思っている。ある種メジャーな宗教でもあればいいのだが、日本にはそういった宗教もない。あるいは、如何わしい目で見られてしまう側面があるため流行らない。おそらく、宗教の方がより複雑で豊潤な物語を提供してくれるはずなのだが。


「そうした物語に騙されないために、本を読みなさい、大きな物語を読みなさい」とはよく言われたものだ。だからと言って、そうした心ない言葉を投げかける人々にいちいち「物語を読みなさい、本を読みなさい」と言ったところで、どうにかなるようには思えない。宗教の意義が後退してしまったいまの世界では、どこの国でもそういう状況なのだろうか。人生を包摂するような大きな物語(宗教)を国家規模で共有できなくなった世界。


法の裁きが適用できるなら、それは法の裁きに従わざるを得ないだろう。けれども、その人個人の責任なのかと言われると、(こういう話題になるたびにいつも思うことなのだが)私はどうも首を傾げてしまう。