コロナの春、ゴールデンウィーク前夜

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壇蜜も「三つの密」を避けるよう呼びかけている

マスクを寄付した

 東日本大震災の時、僕はまだ大学生で、日吉に住んでいたかと思う。日吉だったか、その時付き合っていた女の子の家でよく過ごしていた。あれは、都営新宿線沿線のお家だったかもしれない。もうずいぶん昔のことのように思うけれど、当時はニコニコ動画NHKを聞いて、不安になりながら毎日生活していた気がする。

 そんな時だったか、3M製のN95マスクを買った。売り切れたりしてなくて(普通は売り切れることなんてないだろう)、30個くらい買った気がする。それがまだ家に残っていたから病院に寄付した。役に立ってくれればいいな、と思う。

 まだ1月か2月だったか、その頃は少し値段はしたけれど(8,000円くらい)まだ3MのN95マスクAmazonで売っていた。その時に10個ほど買った。家族にもしものことがあったら、と思って買った。これから先、まだ様子は分からないから、何かの時に役立つかもしれない。

岡村さんのこと

 このGWは日本にいる多くの人が外出をせずに家にいる。Stay Home, Stay Foolish.こんな晴れているのに。家にいると大抵の人はテレビを見るかネットを見る。とても耐えられそうにないな、と思う。ただでさえ殺伐とした雰囲気で、パチンコ屋に電凸して営業をやめさせるくらいの世の中になってしまった。恐ろしい。

 それだけ鬱屈した感情や不安を抱えている人が多いのだろう。「俺も我慢しているんだからお前も我慢しろ」というのは多分、小中学校の合唱コンクールの練習で真面目に取り組んでなかった子が言うようなセリフだ。「俺も苦しんでるんだからお前も一緒に苦しめ」「お前一人だけいい思いをするのは許せない」という同質性と差別と嫉妬が入り混じった感情に、今回は「医療崩壊」という公的なお墨付き(さらには公的機関の要請)が与えられた。これが「安心して殴っていいよ」と捉えられてしまう。増田聡先生が「日本は陰口といじめの国」とはっきりと言っていたけれど、その通りだと思った。

 「こいつは殴っていいのか?」と周りを見渡しながら構えている気がしてならない。自分が安全な位置に居られればOK。人を殴ることには特別の悦楽がある、気持ちがいいから禁止しないといけない、と誰かが言っていた。そうかもしれない。この世界で擬似的に暴力が許されているリアルな場所は、僕が知っている中で一番身近なのはセックスのプレイだけだ。

アイデンティティからシティズンシップへ

 岡村さんの炎上の一件は、人々が自粛生活を強いられて自宅にいたことも相まって「安心して殴ってもいい」の最たるものを見てしまった気がする。これは綿野恵太さんの本『差別はいけないとみんないうけれど。』の冒頭に書いてあることだけれど、こうしてみんなで差別を批判できるようになったのはつい最近のことなのだ。

 かつては差別を受けた当事者しか殴っちゃいけない(差別を批判しちゃいけない)という考え方が支配的だった。なぜか。当事者以外の人間が批判の声をあげても、痛みを直接体験していない人間にはその差別を正しく理解しているか自らに問いかける他なく、省みてしまう(躊躇する)。しかし近年は、そんな反省も考えずに差別者を批判する世の中になった(ex:ヘイトスピーチ批判、Metoo運動、セクハラ、パワハラに対する批判)。

 これは差別批判のロジックがアイデンティティー(社会的カテゴリー、帰属性)からシティズンシップ(市民であること)へ変わったからだ、と見るのが綿野さんの本である。細かい論証は省くけれど、一部をまるっと引用するとこんな風に書いてある。

 シティズンシップの論理は、非当事者を含めたみんなが差別を批判できる状況を作った。しかし、一方で差別批判を「炎上」という娯楽にしてしまったと言える。(中略)ここ数年の炎上騒動は、差別者を一方的に悪者に仕立て上げる傾向がある。それが可能なのは、みんなが自身の持つ差別性を問われることなく安心して差別者を糾弾できるからだ。そのため、差別の原因や背景などが考察されtないまま、どのような社会的制裁を受けるか・与えるかばかりに注目が集まり、そして新たな差別者の告発に躍起になる。しかし、本当に差別者だけが悪なのか。私たちだけが善なのか。シティズンシップの論理は、もしかしたら差別をしているかもしれない、とみずからに問いなおすこと、差別とは何か、と考えるきっかけを失わせている。
 スケープゴートとは、みずからの罪を償うために、一匹の山羊に罪を被せて荒野に放つ宗教的儀式のことだが、いま目のまえで繰り広げられているスケープゴートでは、私たちが犯しているかもしれない罪=責任を、差別者たちに背負わせて追放しているかのようだ。差別者を糾弾し断罪するだけでは差別は無くならないし、みんなで差別者を排除することで、抽象的な理念に留まりがちな「市民」に「私たちは差別者ではない、同じ市民である」という「同質性」をなんとかして確保し、「市民」としての結束を高めようとする儀式に成り果てている。

 僕はあのラジオを聞いてないから、完全に一連の出来事に対してしか述べることができないけれど、多分記事のタイトルだけ見てコメントしている人もいる(はてブにもよくいるけど)し、娯楽として石を投げているんだろうな、と。そして、自分が果たして自分の中にはそういう差別感情を持っていないか、ということを考えてみると、だんだんと自信がなくなってくるのだ(それをラジオの場で言うか言わないかはまた別問題だけど)。

 この本、ロールズやシュミットが引かれていて、初めて読んだ時には難解だなと思って途中で投げ出してしまった。GW中にちゃんともう一度読みたいと思う。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

  • 作者:綿野 恵太
  • 発売日: 2019/07/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

気になっていること

 シュミットで思い出したけれど、「自粛要請」がカール・シュミットのいう「例外状態における超法規的な権力行使」にあたるのかどうか、ということが気になっている。