緊急事態宣言という祝祭的な非日常

 新型コロナウイルスの話がトップニュースとなってはやくも数ヶ月が経とうとしている。世論の一定数は緊急事態宣言を政府に求めているが、まだ宣言は出されていない。先日、東京都知事によって緊急事態宣言時にはどのような生活を強いられるのかが説明された。この週末になる前、鳥貴族や串カツ田中といった飲食店が営業の取りやめを決め、一部のパチンコ屋、大手百貨店が週末営業を自粛するとのニュースが入った。イタリアでは感染者数が横ばいになってきたとのニュース。アメリカではニューヨークが一番感染が拡大しており、一日あたりの死者数は1,400人を超えたそうだ。アマゾンでマスクは売っていないし、ドラッグストアでも長蛇の列とのこと。ちょっと稀に見る状況になってきた。状況が刻々と変わってしまうため、東日本大震災後の原発を注視していた状況とはまた異なる混乱だ。あと大切なこととして、政府よりマスク2枚の配布が告げられたのも今週の出来事になる。コメディアンの志村けんが肺炎で亡くなった。

 現状、緊急事態宣言をしたところで生活は変わらない。西欧各国で取られているような外出禁止令のような強権的な措置は日本の現行法制度では出来ない。現在も外出の自粛を求められているが、それ以上の措置は(個人の行動を規定するものは)取れないのである。にも関わらず緊急事態宣言を求めるとはどういうことか。一部では、政府が宣言しないことにはサラリーマンは会社に行かざるを得ないと言う。しかし私は宣言が出たとしても、事業主が出勤停止を言い渡さない限り通勤は辞めないのではないかと思う。現状、このような状況になっていても、職員に出勤しなくて良いといえる事業主は極々一部に限られると思う。

 何が言いたいかと言うと、私には人々がお祭りを求めているように見えるのだ。昨日と今日を分断する宣言。公に下される緊急事態宣言には一種の高揚感がある。宣言後の世界は、祝祭的な非日常的な空間だ。盆踊りや、お祭り、修学旅行でのキャンプファイヤーのような。あるいはW杯やハロウィンの渋谷のような。この新型コロナ騒動の前から、現代の閉塞感に言及する記事は多かった。それが今、人々がマスクをするようになり息苦しい世の中は目に見えるようになった。ある一定の人々は、ウイルスの収束と同程度に祝祭的な非日常感を待望しているように見受けられる。そしてそれは政治家が嫌うことに他ならない。