クラシック音楽は敷居が高いのか低いのか論争について

序 はじめに

 クラシック音楽の敷居は高いのか低いのかについて、最近ツイッターで盛り上がっていた(がもう廃れてしまった感は否めない)。定期的に蒸し返される話題でもあり、もともとクラシッは「敷居が高い」という前提のもと「いや敷居は高くない」という反駁によって加熱するという構図を取っている。
 しかしながら今回の論争を見ていたところ、共感できるツイートが個人的には殆ど無く認識の乖離を感じてしまった。「いや違うだろう」と。クラシック界隈内の内戦の性格が強い議論だが、あまりにも内輪よりの議論に感じられたため、この感覚のギャップを整理してみようと思ったのがこの記事を書くきっかけになった。

1 敷居とは何か

まずは言葉の定義について、「敷居が高い」と言われる場合に何を言っているのかを確認したい。

「敷居が高い」は、現代では「気軽には行きにくい」などの意味で使われることが多くなっていますが、伝統的には「不義理・不面目なことなどがあって、その人の家に行きにくい」(『大辞林第3版』)という意味で使われる語です。
「敷居が高い」と「敷居が低い」|NHK放送文化研究所

どうだろうか。「クラシック音楽敷居高いよね」という時、我々は何を言わんとしているだろうか。定義にあるとおり、「気軽に足を運べない」という意味だけだろうか。

ここで他に敷居が高いと言われる文化について確認しておきたい。高級フレンチやミシュランに載るような、あるいは京懐石などは「敷居の高い店」という言い方をする。ここで想起されていることは、「振る舞いにルールがある」という儀礼性に他ならない。なにかルールやマナーがあるから、恥ずかしい思いをしたら嫌だな、という気持ちがざっくりとした「敷居が高い」という意味の内実ではないだろうか。つまり、クラシック音楽は敷居が高いと言われる時、そのイメージは「何らかの儀礼性が求められる世界であり、間違ったことをすると恥ずかしい思いをする」というものに近い。

クラシック音楽のコンサートでは儀礼性が大切にされる。それを明らかにするには、フライングブラボーの是非について度々議論になることを例示するだけで十分だろう。観客は着席し、演奏中はパンフレットのカサカサという音すら立ててはならない。プレイヤーは黒の礼服に蝶ネクタイが常だ。ビールを片手に大声で選手の名前を叫ぶ野球場などとは求められるマナーがまるで異なり、オーケストラごとにユニフォームが違うということもない。この儀礼性の高さこそが敷居が高いと言われる理由であり、クラシック音楽の肝であり、また業界を悩ませている原因である。

儀礼

この四半世紀の業界努力は、この高い儀礼性をなるべく低くし、クラシック音楽をより身近に感じられるもの、求められる振る舞いやルールなんて無い、ふらっと足を運べるものだよ、という空気を醸成させる方向で為されてきた。敷居なんて無い、と。

  • 黒い礼服ではなくTシャツでの演奏会
  • MCを交えた演奏会
  • アニメ、映画音楽専門のプロ団体の設立
  • アウトリーチ活動
  • 市民協働での演奏会

いくつかは次世代のプレイ人口育成のための仕掛けでもあるものの、気軽に足を運んでもらおうという意図のある企画・家族で足を運べる企画・舞台で一緒に楽しめる企画等が為されてきた。存続が危ぶまれるラフォルジュルネにしても同様である。ここには、のちに指摘することになるが若年層の取り込みが業界として課題であることも理由の一つになっている。

敷居が低いとはどういう状態か

 では、敷居を低くしようとした先にある敷居の低い状態というのは、どのような状態なのだろうか。敷居が高いとは儀礼性の問題であると述べた。守らなければならないルール、求められる身の振る舞い、そういうものが無い状態である。

  • 映画のように酒を飲みながら見れる演奏会(じっとしていなくていい)
  • 演奏中におしゃべりして良い演奏会(ロックフェスみたいな)
  • 演奏に乗ってメガホンを叩いて大声で歓声を上げても大丈夫(野球みたいな)
  • 音楽に乗って身体を動かしても良い演奏会(クラブみたいな)
  • 運命の4楽章のアタッカで歓声を上げても良い演奏会(盛り上がる場面で身体も同調できる)
  • 好きな時に拍手をして良い演奏会(フライングブラボーの極致)
  • 子供が泣き出しても大丈夫

 ふざけていると思われるかもしれないけれど、ふざけてはいない。それぞれの文化にはそれぞれの儀礼がある。普段からクラシックの界隈で活動している人たちにとっては40分から50分の間、集中して耳を澄ませている状態は普通かもしれない。だが、それは「そういうものだ」と受け入れた者のみが守れるルールなのだ。馴染みのない人たちにとっては、それすら「強いられている」体験になり得る。それが文化のコードというもの、儀礼というものだ。
 しかし、極論のように思われる以上のような"敷居の低い"状態を果たしてクラシック界隈の人たちは求めているのだろうか?

2 なぜ敷居が問題とされるのか

プロオケ定期会員数、来場者数の推移

ここで、プロオケ会員数や来場者数の推移を見てみる。
数年のプロオケ定期会員数・来場者数はともに大きな変化はなく、微増している。

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公益社団法人 日本オーケストラ連盟 オーケストラ実績

趣味としてのクラシック音楽鑑賞、楽器演奏人口の割合に変化はない

 また、国家レベルで人口減少時代に突入したが、クラシック音楽鑑賞と楽器演奏人口の割合は大きな増減はない。左軸の単位は%である。

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社会生活基本調査 生活行動-地域(調査票A)趣味・娯楽の種類別行動者率(10歳以上)全国
(H8〜H28社会生活基本調査による。この社会生活基本調査には「ピアノ」や特定の楽器の項目はない)

日経平均株価の推移

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日経平均株価の推移(平成8年-平成28年
 むしろ、クラシック鑑賞割合や楽器演奏を趣味とする人の割合は日経平均株価との相関があるような感じだ(あくまでグラフを見た際にあれ、と思っただけ)

ピアノの生産台数

一方、ピアノの生産台数は減少している。電子ピアノで一時期盛り返したがものすごい減少割合だ。

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ピアノ生産台数の推移
 画像データは井上公人氏の論文より拝借した(氏はピアノの所有の意味的変遷を威信財→教育財→選択的贅沢趣味財とまとめている)。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/2015SSM-PJ/04_05.pdf

若年層の入場者数は少ない

では、クラシック公演の来場者の年齢別データを見てみる。文化庁平成28年度戦略的芸術文化創造推進事業として東京交響楽団の公演について行われたアンケート結果を見ると、来場者の多くは50代以上だ。

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東京交響楽団 定期公演来場者の年齢階層

文化庁平成28年度戦略的芸術文化創造推進事業『 オーケストラのマーケティング・リサーチと芸術団体のための戦略プラン構築、およびオーケストラのためのマーケティング・ハンドブック制作事業』
東京交響楽団のコンサート来場者向けアンケート調査 およびインターネット調査結果(概要)より抜粋


データから見えること

 なんだ、鑑賞者の数自体に大きな変化はなく、むしろ微増しているからお客さんが減っているわけではないんだ、というのが最初の感想だった。しかしながらピアノ生産台数は減少しているし、プロオケの定期会員・クラシック鑑賞者の多くは年配の方たちだ。
 これらのデータは直接「敷居が高い」「敷居が低い」の問いには答えないが、次世代のクラシックファンを増やすためには若年層を取り込む必要があるということは言えそうだ。そうしなければ業界全体が沈没してしまう、と。また、東京交響楽団の調査では高学歴高所得層ほどクラシックファンが多いという結果が出ており、所得格差が広がるとそれだけファンの人数のパイも減ってしまう懸念もある。これら業界としての課題に対処するため「敷居を低くしないと」という流れが生まれたことは想像に難くない。

2 敷居が高い・低いとは何なのか

では、ここでよく出てくる敷居が高い・低いの各意見について確認してみる。概ね次のようなものだろう。

敷居が高い
  • チケットが高い
  • 楽しむにはある程度の知識、録音の視聴、専門知識が必要
  • 曲が長い
  • 長い時間をかけて音楽教育を受けた者のみが享受できる格式高い文化だ
  • 服装などのコードが決まっていそうで怖い
敷居は高くない
  • 人気がないのは単にコンテンツとして魅力がないものだけ
  • むしろ自分たちで敷居を作り出してお高いものにしている

 敷居が高い理由として挙げたものの多くはクラシック音楽特有の問題ではない。チケット価格がクラシックよりも高いアイドルユニットのコンサートや、コンテンツ(ex:ディズニーランド)は存在するし、ディズニーが敷居が高いという意見は馴染みがないものだ。また、楽しむための専門知識が必要で歴史を知らなければ楽しめないジャンルというのも、クラシック音楽に限ったものではない。どんな趣味であれ、知識があった方が楽しめるし、ラグビーW杯でラグビーのルールを知り、楽しめた人たちは多かったと思う。ラグビーは敷居の高いスポーツだっただろうか?また、コンテンツの長さは映画の方が段違いに長いではないか。

服装の問題

「格式が高い」「何を着て行けばいいかわからない」という意見は、敷居が高いと言われる中ではクラシック特有だろう。文化に向けられる認識、つまり儀礼に関わる問題である。伝統芸能は格式が高いという認識(西洋クラシック音楽伝統芸能の一つだ)は歌舞伎や茶道のような日本の伝統芸能も同じである。

3 クラシックのコンテンツ力

 ここまで、クラシック音楽は敷居が高いのか低いのかについて、クラシック音楽では高い儀礼性が求められること、もともと儀礼を大切にする文化であること、またこの敷居=儀礼を下げるよう様々な試みがなされてきたこと、その目的は若年層の取り込みであること、敷居が高いと言われる意見を検討してきた。
 ここからは、クラシックの特徴を敷居が高いことを2つの点から例示してみたい。敷居を低くする=儀礼性の度合いを小さくすると考えることは、その他のロックフェスやスポーツエンターテイメントと同じ純粋なコンテンツで勝負するということに他ならない。また、現状クラシック音楽の愛好家は高所得層に多いことを鑑みれば、ファン層を取り込むことは、若干語りにくい文化格差の問題にも言及しなければならないからである(これを敷居を低くすると明言してしまうのは若干ヤバい気もする)。

共感ポイントがわからない

 クラシックは共感ポイントがわかりにくい。得点が入るわけでもないし、対戦形式でもない。「ここで絶対全員が盛り上がって熱狂する」というポイントが、ズブの素人には伝えることが難しい。もちろんスポーツもルールが分からないと楽しめないし、どんなジャンルにもお勉強は必要だから、共感ポイントがわかりにくいことだけでクラシックの特異性を語ることは出来ない。また、往々にして共感ポイントは音楽という特性上目に見えないため、マウントの取り合いが起こり、ワインの感想を求められた際のような、「値踏み」が行われる。

コンテンツごとの差異化の難しさ

 クラシックという特性上、同じ曲目を違う演奏者が演奏をする。これは映画などの他ジャンルと異なり、演奏者ごとのプロモーションにおいて、差別化を図ることが困難な理由になっている。
 得てして、クラシックのパンフレットはマンションポエムよりも厳しい状況に置かれている。こういうことを言うと必ず「芸術は一回性の体験だから」と言われるが、一回性の体験であることと演奏会ごとのプロモーションに差別化を図ることは必ずしも矛盾しない。敷居が低いということは、それだけ「何が体験できるのか」が明示されているということだ(コバケンの汗が飛んでくる、とかそういうことだ)。

身体的な同調が許されない

 コンテンツの熱狂に合わせて消費者が熱狂することが許されないルールになっている。熱狂的な場面であってもメガホンを叩いたり、歓声をあげたりすることが許されていない。静かに聞いていなければならない。

感情移入先はコンテンツか、プレイヤーか ー「皆と同じ」の難しさー

 コンテンツに共感すればいいのか、プレーヤーに共感すればいいのか、何に共感すれば盛り上がれるのかが曖昧。AKBやアイドルユニットなら、あるいは野球やサッカーなら、プレイヤーの名前がわからないと楽しめない人もいる。知らない人ばかりになってしまった野球の試合やサッカーの試合を楽しめるだろうか。クラシックは同じ演目を繰り返し演奏される。その際、プレイヤーの特性やバックグラウンドに共感するのか、コンテンツに共感するのか、どちらが押し出されるのか非常にわかりにくい。「皆と一緒に盛り上がる」ことが難しい。

身体の想像力が及ばない=何が凄いかわからない

 身体的な同調の問題と重なる問題だけれども、大きな問題だと思う。
 「なんだかよくわからないけど凄い体験をした」というのは、最高の芸術体験の一つと言える。けれども、ファンを増やすという点では、「なんだかよくわからないけどすごい」=「ポカーン」よりも「すげー!!」が必要だ。では、なにがあれば「すげー!!」になるのか。
 これは、自分の想像力の範囲内にギリギリ収まる技術であれば「すげー!!」で、何が何だかわからないと「ポカーン」になる。この差は、身体的な想像力の問題だ。
 換言すると、自分の身体とプレイヤーの身体がリンクするか、という問題。サッカーや野球、アイドルユニットのダンスパフォーマンスに魅せられている時というのは、見ている我々の身体が、プレイヤーの身体に同化している。だから興奮して息を飲み集中する。あの体験は、想像力によって成立する。
 クラシックでは身体的に同化することも可能だが、超絶技巧などの場合、想像力と身体がリンクするためには一定の訓練が必要になる。その必要となる訓練の程度が、他のジャンルに比較するととても高い。「どうやったらああいう音を出せるのか技術を想像することが困難」という状況になる。「ああ、こんな音を出せるのか…凄すぎる」という感想を抱けるのは、それだけの訓練を積んでいるから想像できるのだ。日常生活で使う身体の所作と、クラシック音楽で使う身体の所作は、まったく別のものだ。(歌舞伎や茶道のような伝統芸能に共通する身体技法の問題だろう)
 えてして、「何が凄いのか想像力が及ばない」=共感できない、ということになる。換言すると、これは「評価の基準が素人にはわからない」となる。

コンテンツとして分が悪い

 以上を見ても、コンテンツの魅力だけでクラシック音楽を他のエンターテイメントと勝負させると、非常に分が悪いことがわかるだろう。同じようにコンテンツだけで勝負せざるを得なくなり、資本の原理に勝てなかったものとしては純喫茶が分かりやすい(純喫茶には補助金の投入など無かった)。クラシック音楽に残されている道は、「知的」「高尚」というクラシックの持つイメージをプラスに捉えてブランディングしていく他ないかのようである。(のちに言及するが、これは敷居を高くする逆張りになる)
 クラシックのコンサートは社交=儀礼の場として機能してきたし、番人が曲を理解しているものでもない。寝ている人だっている。何が凄いのかは個々人の感想に委ねられ答え合わせは存在しない。終演後の食事の場で「やっぱりウィーンフィルは日本のオケとは違うわね」と言うことこそに意味があるものだ、というと刺されるだろうか。


4 所得格差の問題

 次に述べるのはクラシック音楽と所得の問題である。儀礼の問題とは少し離れ、コンテンツ力とも少し違うが指摘したい。クラシック音楽の愛好家は高学歴高所得者層が多いという特徴がある。

クラシックの話題は所得階層がモロバレする

 戦後のクラシック界の努力というのは「金持ちの道楽」と言われたクラシックを如何に安価に市民の手の届く文化にするかという努力だったと言っていいと思う。しかしながら依然としてクラシック音楽はお金がかかる、という認識は消えていない。地方に行けばさらに顕著である。
 はっきり言おう。雑多な階層の人たちの集まる場所においてなされる「クラシック聴く?」という質問は「お前の家金持ち?」という質問と同義である。
家にピアノがある家庭、ない家庭、幼少期から音楽を習わせる親、習わせてもらった人、「家にピアノがあるの?」「いつから楽器習っているの?」これらの質問全てが所得階層に関わる問いであるからして、雑談の話題として選ぶには相当難易度が高い。誰が進んで雑談で所得の話をするだろう?

格差の可視化

 また、それなりの所得階層の社交の場として機能している現状を踏まえると、クラシックの演奏会に行くということは、自らの社会的地位や階層を否応なく見せつけられる体験でもあることも無視できない。

5 見えてくる矛盾

 以上、クラシック音楽は敷居が高いのか低いのかについて、儀礼性が重んじられる文化であるという前提から、他ジャンルに対しコンテンツ力では劣ること、そして愛好家の所得・社会階層との相関から社会ステータスとしての記号消費的側面について見てきた。
 これまでの論を組み合わせると、コンテンツ面での弱点を、高度な儀礼性にまつわる記号的側面=ステータス消費で補っている、という構図が見えてこないだろうか。つまり、敷居の高さ(儀礼性)は、クラシック音楽がその文化を守るためには失ってはいけないものであり、失った瞬間、資本の原理によって淘汰されてしまう。なのだ。オーケストラに公的資金が投入されていることがその証左になるだろう。資本の原理に任せては、儀礼性は取っ払われてしまうだけだからだ。
 かくして、クラシック業界はジレンマに陥っている。

クラシック界の抱えるジレンマ

 クラシック界は、ブルーカラーと言われる人たちが神宮球場プロ野球を見るように、汗の染みた作業着でクラシックの演奏会を聴いている場面を望んでいるのだろうか?
また、馬券を握りしめて出走レース表をガン見しているおっさん達が「お、クラシックいいじゃねーの」と聴き入る姿を望んでいるのだろうか?
所詮金持ちの道楽であることに胡座をかいて、一定所得層以上の文化であること=儀礼性を守りつつ、同じ階層の人たちからパイの奪い合いをしているに過ぎないのではないか?
「敷居は低くしないと、お客さんが入らないしこのままだと業界全体として泥舟のまま沈んでしまう、だが自分たちがやっている文化の良さは維持したい」というようなダブスタが見え隠れするのだ。ただでさえ若者は金がなく、日本全体として格差が広がりつつある中で、大いなる欺瞞を感じざるを得ない。

6 矛盾を超えて

ここまで、クラシックの敷居が高いか低いかについて、共感の問題と所得の問題とを見てきた。コンテンツ、あるいはプレーヤーへの共感が難しいこと、また共感のためのルールが複雑であること、そして所得階層や育ちというセンシティブなプライバシーが明らかになってしまうため、一般的な雑談や話題から排除されやすいこと=似通ったバックグラウンドを持つ者たちの内輪の楽しみに偏ることを見てきた。
これらを裏返せば、プロ野球がなぜ毎日球場が満席近く埋まるのかという理由にもなり得る。勝ち負けというわかりやすいルール、選手の名前が認識されていること、得点というわかりやすい盛り上がり方、そして身体的な同調のし易さ、所得階層の話題に発展することなく楽しめる話題であること、等を考えれば、いかに万人が楽しめるエンターテイメントであるかがわかる。

これだけだと、依然として敷居が高く、安倍政権以後の所得格差が拡大した日本では、ますます文化のすみ分けがなされクラシックの敷居の高さは解消されないと悲観的に考えるしかないかのようである。しかし、新たな取り組みも見られる。その取り組みを展望してこの記事を終えることにしたい。

AKBモデル

AKB48が登場してから、クラシック界でも「顔の見えるコンテンツ」の重要性の動きがあった。プレイヤー一人一人の個をプロデュースしていこうというユニット・団体が登場した。ヴァイオリニスト竜馬が主宰したSound Trackersや、成功しているユニットでは高嶋ちさ子の12人のヴァイオリニストがそうだろう。しかしクラシック音楽というコンテンツの特性上、前面に顔を押し出すユニットは、小編成に偏りがちだ。
また、「敷居の低いものにするために」という建前のもと、様々な取り組みもなされている。演奏家がMCの役割を果たし、楽曲解説を行うもの(レクチャーコンサート形式)、終演後に歓談を楽しむもの、音楽家とのお食事会・・・等々。

下手くそが輝くコンテンツに

その歴史を紐解けば、クラシックのコンサートは敷居が高くて当然である。これを否定することは、この四半世紀の音楽事務所やクラシックパフォーマーの努力に対する冒涜と言っても過言では無いくらいだ。少なくとも業界は、上記に書いたような(表向きにはそうだとは分かっていても言えない)要素を心得た上でしたたかに愛好者を増やしてきた。しかしながら、昔であれば満席であった海外の有名オケの来日公演も満席にならない現状は、単にクラシック離れ・趣味の多様化と言うだけではなく、中間所得層がこの10年で減った経済事情も併せて考えなければならない。「敷居が高い」という曖昧で便利な言葉を使い、言葉を濁しているのは誰だろうか?
クラシック界隈の中に身を浸しているだけでは絶対にわからない感覚が、その外には存在している。