恐怖心と勇気

恐怖心と勇気

私は勇気を失ってしまったのだろうか。そう感じるようになったのは、最近のことではない。27歳くらいの頃からいままで、綿々と私の底をうっすらと這うように流れている気持ちだ。恐怖心に勝たなければならないなと思うことも多い。とても。もともと不安は感じやすい方かもしれない。人前では上がりやすいし、顔色は伺ってしまう。とても弱い人間だと思う。

認めたくないものを認めるのは簡単なことではない、と頭では理解している。ひどく痛みを伴うものだ、ということも。それと同時に、私はこの先生きていくにおいて、過去を引き受けて目を背けずにいきていかなければならないのだろう、と思う。見たくないものはたくさんある。そういうものを葬り去るために生きているところもある。だが、今のやり方では、きっとうまくいかない。抽象的過ぎて、読んでいる人には何を言っているのかわからないかもしれない。でもそう思うのだ。

カール・マルクスや、マックス・ウェーバーや、ジーグムント・フロイトはいずれもすばらしい知的達成をなしとげて人類の知的進歩に貢献したわけですけれど、彼らに共通するのは常人では真似できないような「論理の飛躍」をしたことです。目の前に散乱している断片的な事実をすべて整合的に説明できる仮説は「これしかない」という推理に基づいて前代未聞のアイデアを提示してみせた。

内田樹さんの本に収録されている「論理は飛躍する」の中に出てくる一説。国語教育に論理的思考以外のものは必要ないかのような改革がなされることに対する応答文章。

論理的にものを考えるというのは、「ある理念がどんな結論をみちびき出すか」については、それがたとえ良識や生活実感と乖離するものであっても、最後まで追い続けて、「この前提からはこう結論せざるを得ない」という命題に身体を張ることです。ですから、意外に思われるかも知れませんけれど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は「勇気」なのです。

身体を張る、という身体の肉感を伴う行為なのだと説明する。在学中に何度も見たジョブズのスピーチも引用される。

最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気を持つことである。

論理的に思考するとは、論理が要求する驚嘆すべき結論に向けて怯えずに跳躍することです。

論理が要求する結論に従う勇気を持つこと。
私が苦手としていることだ。他の審級に従った方が楽だ、と。流されてしまった方が楽だ。でも、そんな場面で、するりと流されてしまうためにこれまで勉強してきたわけではないだろう。
信じることを、信じて続けるということ、そうじゃないことにそうじゃないと言うことは、思っている以上に難しいことなのだ。誰にでも出来ることではないのだ。誤りは含まれているけれども一部はあてはまっている場合に「まぁ、そうです」なんて言っちゃったり。

過去について、無かったことにしないことだ。受け入れることだ。勇気を持たなければ。

サル化する世界 (文春e-book)

サル化する世界 (文春e-book)