レッスン、ひれ伏し、あるいは芸術を学ぶということについて

偉大な奏者の背後には偉大な師の存在が隠れていると思うが、偉大な師のもとで学んだからと言って、全員が偉大な奏者になれるわけではない。優れた奏者になるためには、優れた学び手である必要があるが、優れた学び手であるということは、コミュニケーションの態度の問題であり、それは一つの能力だ。どこの位相に自分を置き、対話を開始するかは神学的な問いにも取ることができるし、また師と生徒という二者関係は宗教的なもの、ひいては権力構造が発生するため政治的とも言える。優れた学び手であるために最も適切な位相に自己を置くことが出来るという能力。千葉雅也の言葉を借りれば「ひれ伏し」がそれに当たるだろうか。ともあれ、優れた学び手であるということも、一つの能力である。

レッスンというのは権力構造にあるという点で政治的な緊張の場である。その原型は、おそらく親子関係にある。そして、緊張した政治的空間でしか開かれない扉は存在する。壊すことのできない心の壁は存在する。ある限定された空間、規定された政治的(権力)関係、緊張感がありながら心理的安全が守られた状態、そういった様々な条件が揃ったときに初めて踏み出すことのできる領域や光を当てることのできる領域がある。構造に規定されている。これらの条件は自分一人では作り出せない、二者関係が生み出すものであるからして、レッスンは偉大である。

音楽に限ったことではなく、芸事であればいずれの分野でも共通している(cf:風姿花伝)。ただそのことを学ぶわけでは決してなく、息づかいや呼吸を学ぶといった方が近く、昨今のビジネス書にアートが進出してきた背景には、このような学びの訓練がアートには組み込まれていることが理由の一つなのではないかと思う。