旅行の合間に

 福井に宿泊した最後の日の夜、友人とたまたま同じホテルを取っていたのでお風呂に一緒に入り、色々な話をした。もう1年くらいは旅行らしい旅行をしていなかった。していたかもしれないけれど、旅行をしたと言える感覚になったことが1年くらいはなかったと思う。こういう夜は久しぶりだった。マッサージチェアに座って自分の足の形を眺めながら、色々と話をした。彼は「己の気持ち悪さを超越しなければならない」と言った。

 飲み会でも色々な話をしたけれど、そのほとんどは音楽にまつわることだった。最終日の飲み会には20人くらいが出席した。社会人の参加者のうち、半分くらいはその日のうちに東京や首都圏へ帰っていった。僕は翌朝の便で帰り、午後から出社する予定になっていた。今回の演奏会では全国高校オーケストラフェスタに出ていた人たちも何人か一緒だった。その人たちと一緒に舞台に乗り、宴会にも行った。自然とその頃の話になり、だんだんと10代の頃に取り組んでいた曲や、その時の感覚に近づいていった。一人ではそんなことは出来ないけれど、一緒にその場を共有していた人たちといると、無理なくその頃の感覚に触れることができた。もしかしたら一番純粋に音楽が好きでいられた時期はあの頃だったのかもしれないと思った。

 今回集まったオーケストラフェスタに出た人たちはみな30歳前後になり、高校卒業後の大学では皆それぞれに大学オーケストラでプロの音楽家から指導を受けていた。県立高校から進学した僕たちが西洋クラシック音楽のオーケストラ作品に取り組むにあたって、英語でいうところの英文法にあたるような西洋クラシックの文法を学んだのは大学オーケストラが初めてだった。

 西洋クラシックには約束事や決まり事が多い。その約束事や実務的な知識や経験を得たのが大学時代だった。文化(=文法≒規範)を学ぶとはそういうことだ。首都圏の大学オーケストラを経た人たち(しかるべきプロフェッショナルなオーケストラプレーヤーの指導を受けた人たち)とは、この演奏する上での文法を共有することができる。だから、合わせ時間が少なくとも共有できることが多く、話も早い。ロジックがあり、そのロジックの拠って立つところの文法を共有出来るからだ。でも、その「約束事を共有する」という次元でリハーサルが終わってしまい、そこから先に進むことが出来ないことが多いのもまた事実だ。到達点としての照準を約束事の共有に合わせてしまうことが、だんだんと多くなり、とりあえず80点の演奏を目指してしまう。

 高校生の頃は、そんなことは考えもしなかった。舞台での演奏機会は年に1度しかない。ある意味では、とても幸せな時期だった。専門的な教育を受けていなかっただけと言われればそれまでだけれども、ただ純粋に音楽を感じるがままに楽しんでいた時期があった。その年に1度の演奏会が、自分の人生の大部分を占める特別なもので満たされていた。
 今回出会った地方の大学オーケストラは、関東圏の高校オーケストラくらいの人口規模なところが多く、プロ奏者からの指導もなかなか受けることのできる環境にない。演奏会も年に1度。今回、飲み会や合奏で少し交流することが出来たけれど、まるで自分たちの高校時代を見ているようだった(そこまで幼くはないけれども)。彼らが僕たちが高校生の頃にしていたように、好きな作曲家の話をしていたり、「好きなシンフォニーは何ですか?」と質問しているのを聴いていると、その気持ちを失わないでほしいという気持ちと、それだけでは足りないのだと伝えてあげたい気持ちとで引き裂かれてしまった。と同時に羨ましくもなった。もう僕たちはそんな気持ちで音楽ができないことを知っているから。文化を学ぶことはそのコード(規範)を学ぶことなのだから、間違った気持ちではないけれど、それでも。

 取るに足らない問題だよな、と思う。人が集まりわいわいと楽しく過ごす時間の方が、そんな規範よりもずっと尊いことのように思えるからだ。