問題解決

問題解決

なにか問題が起きた際に、その問題の原因を解決するものではないにも関わらず、新しい制度を作ったり、新しいシステムを導入する、ということがよくある。なんでそうなってしまったんだろう、ということが本当に起こる。最近では神戸市の教育委員会の判断なんかがその典型かもしれないけれど、本当に中にいる人は真面目に考えている。真面目に考えてあれなんだと思う。

これがカレーでは無かったら問題にはならなかっただろう。パンを顔にぶつけたり、ご飯粒なら問題にはならなかっただろう。カレーは排泄物にも似た色だし臭いも強烈だ、カレーだったのが問題だ。
→同様のことが起こらないように、給食メニューからカレーを無くそう

給食にカレーがあったから問題が起きた、という風に問題設定を組んでしまって、そこから誰も抜け出せないか、指摘する意欲も削がれてしまったのだろうか。「いや、そもそも」と話の腰を折る人がいなかった。あるいは、周りの職員も馬鹿だろうと思っていた人はいたと思うけれど、口を突っ込むような空気にはなっていなかったんだろう。

組体操

と思ったら次は組体操で。そもそも運動会や組体操の管轄はスポーツ庁でいいんだろうか。防衛省からの働きかけはないんだろうか。
明治期の富国強兵政策の際、規律訓練の一環としての体育科目だったはずだ。運動会の行進や組体操はその名残りで、権力に従順な身体の育成というか、権力に従順な精神の内面化が目的だったと思う。そうなるといま議論されている組体操の廃止というのは戦争のできる身体からの脱却…となると思うのだが違うのだろうか。
国家運営において体育科目というのは、理系科目やプログラミング教育のように経済競争に勝つことに直結するものでもなく、ナショナリズムやリアルな肉体を使った戦争により近い位相で議論されて然るべきな気がするが、なかなかそういう話は一般的ではないようだ。いまのところ。