與那覇潤『過剰可視化社会』を読んだ

 とても良かった。個人がネガティブな物語を物語ることへの社会的な抑圧がおおきな社会であること。資格や学歴といったポジティブな属性のみならず、障害や病気といったネガティブな属性までもがタグ付けされ資本となっていること。などなど、面白い話がたくさんあった。対談相手に選ばれている三人と與那覇さんがそれぞれに準備をして臨まれていることや編集の力もあってか、とてもコンパクトにいまの日本社会の病理を抉り出すことに成功していると思う。これまで東畑開人さんの本は書店で平積みになっているのを眺めるだけだったが、本書で開陳されている説明に平伏しっぱなしであった。さっそく図書館で本を予約した。
 3人との対談で一貫しているのは、可視化しきってしまうこと、資本に取り込まれてしまうこと、身体を失うことへの違和・抵抗である。グレーゾーンを残すこと、資本の支配する物語とは別の物語をオプションとして作ること、そしてリアルな身体感覚の復権・信頼である。
 特に身体への忌避感というのはこのコロナで一層加速したように思う。もともと厄介なものであった身体が、接触を更にないものへと働きかけられ、単なる情報のやり取りを行う主体のみが残ってしまった。本書でも述べられる通り、リアルな身体のプレゼンスには、極端な非難の応酬や過激化を踏みとどまらせる力がある。
 磯野真穂さんは医療人類学をフィールドとする方で、本書で初めて読んだ。2008年の特定健診開始を身体感覚よりも疫学データを優先し、データで健康を管理する今につながる生活に変化する契機と捉えている点が面白い。本書全体が2010年代の日本において進行した清潔化・キラキラしたダイバーシティ政策、新たなるジェントリフィケーションと、その背面で進行した社会病理を分析する本であるが、ここに糖質ゼロや第3のビールが2010年前後に発売されたことやメタボの名において予防医学が言われ始めたことをもって、我々自身が自らの健康を自らに課し、広い意味での規律訓練型権力に取り込まれていく契機と捉えている。

以下、メモであるが、3.11以降の日本社会を捉える上で、とてもコンパクトにトピックがまとまっており、必読である。

  • なんらかの答えを出すポジティブな能力は、プロフィールなど目に見える形にしやすい。一方、「なにが正解かわからない」状態を、むしろ安易な答えに飛びつかないことによって、自身とは違う考えの持ち主とも相互に尊重し合いながら乗り切るネガティブな能力は、視覚化には向かない(帚木逢生『ネガティブ・ケイパビリティ』)
  • SNSアイデンティティを可視化し、仲間を集めることは容易になったものの、多様性を掲げる野党は敗北した。積極的に自らの属性を可視化することを望む人々だけに限られたいわば「キラキラしたダイバーシティ」が包摂する以上に多くの人を排除してきた事実がある。
  • 個性をタグ化しないと交友を始められないのか?
  • 2010年台はプレゼンブーム。グローバル人材ブーム。火付け役はジョブズ
  • 平成末から、発達障害をギフテッド恵まれた才能と読み替えて持て囃すことが増えた。背景には病気の有無を問わず通底するハイコンテクストへの忌避感。人間同士のやり取りに伴う複雑な文脈を回避して相互に意味のずれが生じることのない空間で折衝も調整もなしに過ごしたいという欲求。
  • マイノリティをキラキラさせることでPRする社会運動の限界。視覚的に華やいだ演出が可能な絵になる弱者だけが注目と共感を独占し、本当に苦しい人たちの存在は不可視の場に追いやられる。
  • 何か中身のあることを言おうとすると意見が異なる人との間で摩擦が起きる。あらかじめその危険性を回避しよう予防しようとする優しさがやばいエモいの言葉には込められているのではないか。意見が違ってもいいという深い友情や信頼が生まれる可能性を未然に積んでしまってもいる。
  • なぜパーティのときに手土産を持って集まるか、それはケアの質を比較不可能にする、順位づけを見えなくすることが大切だから。ケアの内実を見える化数値化するのは実は怖いこと。全員が金銭を持ち寄ったら困る。
  • 平成末からはやってきた見える部分をキラキラさせるだけのダイバーシティはコロナで破綻した。我々は一律ではなく個別性にこだわるべきだった。
  • 視覚的アイテムやSDGsなりオーラなりパワーストーンなりタグとして流通する概念視覚化された言葉を通じてでないと自分がこの社会世界の中で有機的に位置づけられている気がしない。そうした孤独を抱えた人が増えている。社会学風にいうと生活世界が空洞化した結果多くの人がシミュラークルのように実態のない幻想でその隙間を埋めるようになっている。
  • 重要なのは、何か見える指標がないと気持ちが辛いという状況自体が視覚依存症とも呼ぶべき病気の症状を自覚すること。エビデンス重視の人こそ踏まえて欲しい。
  • フロイト精神分析には分析者の恣意性が入り込むから客観性は怪しくなるが、共同主観性(複数の主観が共有するリアリティ)にはそれなりの有効性がある。人間が対話する意味は客観性に到達することだけではなく共同主観性を構築することにもあると思う。p109
  • 心を数値や統計で表すことは現代の国の行政手続きでは不可欠。しかしデータとして表せないなら心の苦しさは存在しない、といった倒錯が起きると問題。そのために共同主観性のような曖昧なものの場所を社会に残しておくことが大事。
  • メラニー・クライン。妄想分裂ポジション(ps)と抑うつポジション(d)の二つの心のありようを提案した。psポジションのとき、白黒思考。敵味方しかいない。dポジでは「自分にも悪いところがあるのでは」と灰色のグラデーションで理解できる。クラインは抑うつを悪い意味では使っていない。psポジは三次元的。dポジは時間が導入されて四次元的。過去からの連続性を考慮に入れて相手を思いやるようになる。いまここだけではなく歴史を持った存在として現れる。苦しい時ほどpsポジションになる。安全感が保たれるとdポジに移行できる。
  • 通過儀礼にも暴力性がある。結婚して子供をもってはじめて一人前、という話はもう通用しない。しかし多様性の副作用として医学の言葉だけが人生のケアを独占するようになった。ですから、多様性を担保しつついかに苦悩を医療化から取り戻すかが重要。
  • すべてが綺麗でないといけないといった広義のジェントリフィケーションが進んでいる
  • 規範にはまらない固有の生き方を面倒くさいものとして切り捨て標準的な目に見える指標だけになるのは粗雑。「新たなるノーマル主義」と呼ぶ。
  • 否定性を含むものを味わうことで人間の難しさを知る
  • レトリックには本来、多様性や相互の対話を触発する役割があったが、その力を論破術に貶めてしまった結果、誰もがファクトしか気にしなくなった。批判を言い返せなければ負け、みたいな風潮。
  • ファクト的な正しさとは異なり、レトリックの品位を問うことが必要
  • 08リーマンショックと11東日本大震災以降は「当たり前の生活」の存在感が一気に大きく迫り出して、個性的な生き方の話は受け入れられづらくなった
  • 身体性への忌避感が広まっている。他者の身体に自分が侵食されることへの恐れ村田沙耶香
  • 相手の身体がないと歯止めがきかない。身体的プレゼンス(存在感)がもつある種の権威性がなせるワザ。身体を尊重し合うことが社会を維持するために欠かせない。オンラインだけでは議論や折衝は成り立たない。不透明なものとしての身体がどこかで必要になる。
  • 陰謀論エビデンス主義は、世界が多義的なものであることを拒絶し、単一原理に回収するものとして通底している
  • 欧米は日本以上に本音と建前が分離していると理解すべき。一致しているというのは日本人の幻想。分離を前提に社会を動かしている。
  • 医学や心理学の言葉、病名のタグ。ネガティブな感情を人前で吐露できない。他人と共有できない。人間関係のドライ化、隔絶化は現代の苦しいところ。ネガティブな語りができない・抑圧されることで、個別の物語が開かれていかない。その結果、物語が貧困化する。
  • 複数のストーリーを走ることが精神の健康には必要。過去を振り返ったときに、いいことも悪いこともあり評価が灰色であること。人生に流れている複数のストーリーのあいだで心が行き交っているとき、心には余裕が生まれる。「この物語以外ありえない!」となるとあぶない。「現状を理解可能にしてくれる物語はこれしかない」となると社会も敵味方にわかれてしまいグレーゾーンがなくなる。
  • 「一見誰もが肯定できる言説」がじつはあまり健康に良くないことをメンタルヘルスの専門家は気付きやすい。
  • プライベートな秘匿性を認めず、アイデンティティすべてを公共化するのは世の中が「一億総タレント社会」になった証。あらゆる属性がキャラ立ちのための道具として使われる。多様性の尊重とは正反対の世の中。
  • 学歴や資格などポジティブな属性が飽和。病気までもがタグづけされて資本となっている。
  • ボディレス、身体軽視。身体感覚よりも疫学データに沿って生活するべきという考え方が広まったのは2008年の特定健診開始が契機。第3のビールや糖質ゼロ商品が数多く出てきた。しかし、それを身体的な感覚で判断することはできない。
  • なぜ私がこの病気に、を自然科学は答えられない。医療人類学では、客観的な病気の感染源を扱う「病因論」と主観的な不幸を説明可能にする「災因論」を区別することがある。

戸谷洋志『スマートな悪』を読んだ

  • スマートさは価値内在的。価値中立的な「重量」などとは異なる。第五期の科学技術基本計画に登場するsociety5.0では超スマート社会が未来社会の姿として描かれている。

必要なもの・サービスを、必要な人に、必要な時にら必要なだけ提供し、社会の様々なニーズにきめ細やかに対応できらあらゆる人が質の高いサービスを受けられ、年齢性別地域言語といった違いを乗り越え、活き活きと快適に暮らすことのできる社会

  • フィジカル世界はサイバー空間のもとで処理され、社会はより自律化、自動化していく。
  • 日立東大ラボのsociety5.0では、人間にとって究極の価値とは何か、それを「人間が変化すること」とする。人間存在human beingから人間となる″Human becoming″へ。
  • 生成変化が価値であれば、貧しくなること、不幸になること、不自由になることもまた肯定されなければならない。
  • 「社会が人間を制御しながら、しかし人間は自由に行為していると思い込んでいる状態」これは近代的権力そのままである。
スマートさとは
  • ゲルマン共通言語smertan、古期英国smeortanに起源をもつ。smerteとは痛み。merdは痛み。merは摩擦、消費、使い果たす。
  • のちにschmerzドイツ語の痛み。苦痛。Leidenはある事柄に耐える。違いは「人間に直接に加えられた力によって引き起こされた人間の反応」
  • カント。痛みは関係性を断ち切る。それ以外のことを感じることを不可能にする。その痛みだけが私を占拠する。
  • アレント。苦痛は他の対象から完全に独立しておりら苦痛にある人だけが本当にただ自分だけと感じる体験。公的領域からの切断。
  • スマートさの本質的特徴は「最適化」である。仕組みの最適化。スマートさとはロジスティクスの最適化である。
  • スマート決済がスマートであるのは、スマートフォン利用者、加盟店、通信会社、決済代行業者を連携させ、新しい決済の仕組みを作り出していることがスマートなのであって、コンビニに設置されている読み取り機の性能が優れているからではない。
  • ハイデガー。人間はただの用象としてのみ存在する様になる。人間を資源として扱い、この観点で眺める態度は暴力性を帯びる。
  • スマートデバイスの本質は、余計なそれ以外のものと関わらなくて済むことにある。それは痛みが私たちを他者との関係から切断することと連続している
  • スマートなものの賢さは、それ以外の余計なものと関わらなくて良いこと。余計なものからの解放。不必要なものの排除。
  • 人間はサービスを受ける存在であるとする受動性。痛みも受動的なものである。スマートデバイスにより人間はより受動的な存在に規定される。
  • 痛みとアンダースのいう不感症は一体である
  • この2つの特徴を最適化と名付けよう。スマートとは最適化のこと。超スマート社会はすべてが最適化された社会。
アイヒマン

レス(尋問員)は国内法とは別に、いわばその上位に普遍的な自然法な存在すると考えている。それに対してアイヒマンが法と認めているのは国内法に限定される。レスが非合法として批判しているのは、国内法においては合法としても、普遍的な自然法の観点においては非合法とされるような行為である。対し、アイヒマンはそもそも普遍的な自然法の存在を認めないからこそ、そのような判断は成り立たず、非合法は常に国内法からの逸脱としてしか説明できないと考える。
 アイヒマンの考えでは、法は「命令の意味や理由を探ること」自体を禁止するものだった。だからこそ彼は自分が命令された事柄について思考すること自体を避けていた。自ら思考しないこと、判断しないことが彼が責任を全うすることであったからだ

アレントの悪の陳腐さ
  • アイヒマンはただ昇進したいという欲求に動かされたに過ぎない
  • 彼の致命的な欠点として「自分のしていること」を理解するだけの「想像力の欠如」をアレントは指摘する
  • ナチスのシステムで出世するために自らを最適化し、ユダヤ人問題解決のためのスマートなロジスティクスを組み上げた。このことを陳腐だという。
  • ある条件と環境に陥れば誰もがそうなりかねない。
  • アレントによれば、悪とは「その実行者の邪悪さ、病理、あるいはイデオロギー的な確信などから説明できないもの」である。
  • 陳腐である、とは「ありふれていることである。言い換えれば「みんなと同じ」であろうとすること、自分以外の中にも自分と同じものが見出せるものになろうとすること、自分が特定されないものへ埋もれようとすることに他ならない」
  • 悪の陳腐さはアイヒマンに帰せられる属人的な問題ではない
  • なぜ悪に加担してしまったのか?アレントは背景に道徳の習俗化をしてきする。
  • 習俗とは、恣意的に変えることのできる慣例、習慣、約束ごと。習俗化していない道徳は、普遍的な妥当性をもつために尊重される。習俗化した道徳は、ある共同体の中でルールとして承認されているゆえに尊重される。であるからして、ナチス崩壊後のドイツはわずかな期間でもとの道徳性に戻ったのである。郷に入っては郷に従う、この服従アレント「良心が自動的に機能する」事態と解釈する。
  • ナチスに加担した人は良心を自動的に作動させていた。
  • 「公的な生活に関与しなかった人々は、良心をこのようにいわば自動的な形で機能させなかった人々だと言える」。それだけが悪の陳腐さを回避する方途である。
  • 「特定の行為を実行したあとでも、自分と仲違いせずに生きてゆける限度はどこにあるのかと問うのです」
  • アレントによれば、良心を自動的にではない仕方で働かせる、ということは「自分と仲違いせずにいきていくこと」を意味する

しかし良心が自動的に機能しない人々は、もっとも別な基準にしたがっていたようです。こうした人々は、特定の行為を実行したあとでも、自分と仲違いせずに生きてゆける限度はどこにあるかと問うのです。そしてこれらの人々は、公的な生活にはまったく関与しないことを決めたのですが、それはこのことで世界がより善くなるからというのではなく、そうしなければ、自分と仲違いせずに生きていくことができないことを見極めたからです。ですから公的な生活に参加することを強制された場合には、これらの人々は死を選びました。残酷な言い方ですが、こうした人々が殺人に手を染めることを拒んだのは、「汝殺すなかれ」という古い掟をしっかりと守ったからではなく、殺人者である自分とともに生きていることができないと考えたからなのです。P94

  • 習俗化した共同体の規範に従うのではなく、その行為をした自分とともに生きることができるか「私」を問い直す。その行為をした自分と共に生きていきたいかを自分自身に問い直す。こうした思考が全ての哲学的思考の<根>のところにある。私たちの道徳的判断の起源にあるのはその行為をした自分と生きていきたいかを吟味することだ。

人間にとっては、過去の事柄を考えるということは、深いところに向かって進むということであり、自分の<根>を見出し、自分を安定させること」である。それによって人間の道徳的な判断は「時代精神Zeitgeist」や歴史や単なる誘惑などの出来事によっても、押し流されないようになる」

  • 悪の陳腐さは、<根>の喪失。根を持っていないこと。自分の行為に対する忘却という形で顕在化する。自分のしたことを覚えていない。だから、ナチスが崩壊し共同体が変わり道徳的ルールが変わっても自動的に考え方を変えることができる。普通の人々への批判。
  • 最適化を至上とする社会では、良心の自動最適化を生む。これは悪の陳腐さを再生産させる。このとき人間は積極的かつ自発的に社会システムの歯車になろうとする。システムの要求する最も望ましい歯車へ自らを最適化する。これは人間が無責任になることだ。自らの良心を最適化するとき、人間は自ら思考して行為するのではなく、システムの要求に従って行為する。その行為の責任はシステムの側に帰属する。実際にアイヒマンは、自身の行為の責任をナチスの法に転嫁し、自らの無責任を訴えた。政府が機能する時、政治システムはすべての人々を歯車や車輪として利用する。個人はシステムを変更しなくても取り替え可能でなければならない。官僚機構、公務員、全ての機能の背景にはこのことが前提とされている。スマートなシステムは人間から責任の主体としての性格を奪う。
アンダースの指摘
  • 『われわれはみな、アイヒマンの息子』
  • 機械に対する人間の無能力。制度化され工場化されたものはすべて比喩的な意味で機械である。人間は機械に対して無能力である。10人の殺害はイメージできるが600万人はただの数字になる。大量の人が殺されるにしても、業務が確立されてしまうと人間にはその帰結がイメージできなくなる。
  • 機械の原理は最大限の成果を達成すること。この環境世界を必要とする。機械は目的を達成するための手段だと思われているが、それ自体として拡大拡張し続ける傾向を持つ。
  • 機械は環境を機械化する。人間もまた抹消される。ナチス統治機構も機械。
  • 全体主義への傾向は機械の本質をなしていて、もともと技術の領域から生まれるものだ。効率的であることへの欲望、無駄をなくすことへの欲望がそれを駆動させる。ナチズムは機械の原理の現れ方の一つだが、別の政治体制でも機械の原理に支配されることはあり得る。機械の原理への嗅覚を失えば、ナチスと同じ穴の狢となる。
  • 機械の原理に人間が従属し、支配される事態を「順応主義社会」と呼ぶ。支配されている人間自身が進んでシステムに順応していく社会。
  • 順応するために努力が必要な場合や対応が必要な場合、その社会は順応主義社会としては未完成。自分が順応して支配されていることに気づかない
  • システムに同調するとき、人間はシステムの一部となり独立した人格であることを止める。モダンタイムズと逆で、今日では人間は機械に順応しようとしている。
スマートな悪
  • 大きな(スマートな)システムの中に組み込まれ、ロジスティクス最適化された中で引き起こされる悪のこと。人間自らを最適化し、歯車となり、責任主体としての性格を喪失し、無抵抗に暴力に加担してしまう悪のあり方。
満員電車とナチス
  • 寺田寅彦「結局は人々が満員電車を好んでいる、趣味である」乗客は暴力に加担し、再生産している。
  • 磯村英一 満員電車に乗ることは人間を非人間的にするが、非人間であることを受け入れられる人間こそが社会適格者として承認され、非人間的であることを拒絶する人間は社会不適格者として扱われる

満員電車の2つの暴力。物理的な暴力と、それに耐えられないものを社会不適格者として排除する暴力。人間が無駄を排除するロジへ自らを最適化し、無抵抗になる。スマートな悪。

システムの複数性
  • 現実が超現実により調整されるのが超スマート社会
  • 個々のアプローチでは無駄が生じる。一元的に管理することで無駄のない課題解決が可能になる。
  • スマートさの語源は痛み。痛みは他の感覚を排除する意味において一元的。スマート化の内在的傾向としての一元化と連続している。
  • スマート化は多様性を否定し他者を排除する。異なる人間同士のコミュニケーションを失わせる。閉鎖性。スマートなシステムは閉鎖的である。
スマートな悪に抵抗することの困難さ
  • オウム。閉鎖性の外部を若者に見せて拡大した。しかし実際はもう一つの閉鎖性でしかなかった。
  • 村上春樹。人間にはもともと閉鎖性を好む傾向がある。
  • あるスマートな悪の否定は、別のスマートな悪の出現を妨げるものではない。
  • 現実との回路を失わないこと。虚構は人間にとって必要なものだが、現実への帰り道を絶たれてしまう、「継続性の断絶」。現実はそのうちに虚構を抱え込んだものとして、虚構を包摂した者として存在している、というのが村上春樹の理解。サーキット。
  • 開放性の原理は複数の閉鎖性へと開かれているという意味で理解しないといけない。
  • 私たちにとって重要なのは、スマートなシステムを否定することではなく、別のシステムへアクセスする可能性を守ることなのではないか
どう抵抗するか
  • 痛みは人間をリアリティから切断する
  • イリイチ。テクノロジーの開発には一定の限界が設けられるべきだ。際限なき開発は人間がテクノロジーのために存在するような「新たな奴隷制を出現させる。道具のために自らのライフスタイルを変更しなければならない状況をイリイチ「校舎化・病棟化・監獄化」と呼ぶ。
  • イリイチはある限界の中で人間がテクノロジーを使用し、共生が実現される世界を自立共生的(コンヴィヴィアル)な社会とよぶ。新しい生産システムの全体効率に対する自立的な個人と一次集団の貢献度をより大きくする方向で再建されなければならない。
  • 超スマート社会は人間の自由を調整されるべき変数とみなすが、人が互いに尊重し合うことで新たな共同性を作ることができる可能性を見失わせている。人間的な相互依存を基本的な価値とする社会が自立共生社会(コンヴィヴィアルな社会)である。
  • 自立共生社会とは人がそれぞれのライフスタイルに合った道具を使い、自由にカスタマイズしなから不揃いの道具を使う人々が互いに助け合い補い合う社会。自分の用途にあわせてカスタマイズできることが開発の上限とイリイチは考えている。
  • システムに帰属しながらも閉鎖性に抵抗しうる道具の姿としてのガジェット。
ガジェットの存在論
  • ガジェットとは、もともとの名前を忘れられた道具のこと
  • 特定用途が失われたが残っているもの。帰属性の喪失ゆえに他のシステムへの応用が効く。
  • 道具はつねに閉鎖的なシステムに帰属している。ガジェットはもと帰属していたシステムから離れることができる。ガジェットが使われる時、あるネットワークの中に埋め込まれる。別システムにも帰属しうる、その可能性を前提としながら使われるもの、それがガジェットの存在論的な性格。転用可能性。
  • スマートなテクノロジーはガジェットを排除しようとする。純正品で構成しようとする。「これさえあればなにもいらない」こそスマート。
  • 私たちは自らもまたガジェットとしてシステムに帰属するべきである
  • 歯車ではなくガジェット
おわりに
  • スマートなテクノロジーの暴力性が認識されていないこと、society5.0の危険性。
  • 暴力が暴力と認知させられずに誰かを傷つけ、暴利や枠に加担してしまうかもしれない。
スマートさとは異なる人間とテクノロジーの関係とは
  • スマートさはロジスティクスに対応する概念。ロジスティクスが最適化されるとき、スマートだと言われる。しかし、最適化は倫理的妥当性を担保しない。その最たる例がユダヤ人虐殺である。良心をシステムに最適化させたとき、ひとはハイデガーの言うところの「用象」となり、アレントやアンダースの言葉では「歯車」となる。非人間的な状態に置かれ、独立した人格であることができなくなってしまう。アイヒマンナチスの歯車であったように、我々も都市の歯車となることに抗えない。

 しかし、システム最適化を拒むことで悪を免れられるわけでもない。世界は複数の共約不可能なシステムが並列的に存在するし、人間はシステムへの帰属なしに生きることはできない。だからこそ、複数のシステムに開かれた存在として人間を理解する必要がある。ガジェット。歯車として生きるのではなく、ガジェットとして生きる。

つまり私たちはたとえシステムに帰属せざるを得ないのだとしても、そのシステムとは別のシステムへと転用可能であり、別のシステムでは全く違った機能を発揮し得るものとして自らを理解することができる。そうした自覚を持つ時、少なくともシステムの閉鎖性には亀裂が入るのであり、スマートな悪に抵抗するための一つの道筋が開かれる

  • 私たちが目指すべき技術のあり方は、最適化ではなくむしろ結ぶ技術だろう。システムを結ぶことは一元性を実現することではない。異なるシステムが互いを排除せずに同居する。解かれることは結ぶ技術の要件となる。