無題

 人間のメンタル維持にはいくつかの要素が関わっている、ということを進化心理学の本で読んだ。至極真っ当なことを書いていて、確かにそうだと思った。職業、社会的地位、お金、恋愛、家族、健康。他にもあったかもしれないけれど、『なぜ心はこんなに脆いのか』に挙げられていたものは書き出したような物事だ。我々はメンタルを病むと休んだり投薬を受けたりする。カウンセラーは何が原因になっているか話を聞く。だけれども全てが全てうまく行くわけではない。精神分析の分析家による主観的な診断の行き詰まりから生まれたDSMについても限界点が指摘されている(美馬達哉さんや松本卓也先生の本でもこのことは読んでいたからよくわかった)。主観を排した客観的な症状だけを問題にすることでかえって本人の心を苛む原因にアプローチすることが困難になっている、症状を病気として見ることの弊害が指摘されていた。心を病む原因は多義的で、何か一意の物事に原因を求めること自体が非合理的なものだ。多くの場合、上にあげたような物事が複雑に絡み合っている。当たり前のことのように思えるが、じゃあ今の自分が(あるいは今後)、こなしていかなければならないタスクは何だろうかと考えることは、よく生きるために大切なこととなる。
 僕はこれまで、仕事や社会の中で占める場所(多くの場合、それは仕事を通じてのことだ)について、それがメンタルに及ぼす影響を軽視してきたように思う。なぜだろう?人の心の問題は、結局のところ脳内で分泌される物質の多寡に還元される問題だと思ってきたからだろうか。それとも遺伝的なもの? この本では、遺伝的要素も精神疾患発病の一因となることを研究結果を明示しながら示しているが、なにか特定の対立遺伝子が存在するわけではなく、何百、何千の遺伝子が相互に関連しあって遺伝的な「発病しやすさ」を決めている、というのが最近の研究による結論のようだ。遺伝的要素は色んな物事につきまとうが、身長や糖尿病、運動神経についても、なにかそれを決める対立遺伝子は存在しない点では同様のようだ。
 話が逸れてしまったが、人間社会の中で生きていくにあたり、メンタルを維持するためには、ただ脳内物質の多寡だけを問題にしていれば良いということでもない。ちゃんと人生の中で仕事、恋愛、家族といったタスクをクリアすることも、長期的に見て本人が生きやすくなるという至極もっともな常識的なことが述べられていた。
 どうだろう?世の中がどんどんあからさまに人間を商品化していく傾向が強まる中で、僕はちゃんと然るべき場所にいることができているだろうか?それは自分自身が納得できる場所だろうか?そうでないならば、今一番にやるべきことは何だろうか?

休み

座れる場所

 せっかくの休みなので、午前中にランを済ませて、ベッドで横になりながら本を読んで、移動しようと外に出たけれど、1時間くらい歩いても喫煙のできるお店が見つからなかった。別に喫煙でなくてもいいのだが、ちょっと腰掛けるようなベンチは既にホームレス対策で仕切られているし、変なアートみたいな居心地の悪いベンチに様変わりしており、街に出ている人々はそれぞれに路上に座ったり、ちょっとした場所に用途外の仕方で座っていた。
 昔ながらの純喫茶が家の近くにあるが明日まで休みで、近所のドトールはいつも人でいっぱいだ。コロナ禍でまだまだ密集した場所に不安を覚える人たちは人との距離を取りたいと思ってそれまでであれば過ごしていたであろう場所で過ごさず、街中の広い場所に出ている。しかし、そういう人たちに対して街中でおもむろに過ごせるキャパが不足しており、街として受け止めきれていないように思う。どこの街でも同じようなことが起きているのではないだろうか。