日記

今日は首相が一日中外出しなかったそうだ。毎日新聞がそう報じてニュースになっていた。首相が家にいただけでニュースになるのだから、ニュースというものはなんぞやという証左でもあろう。年明けから第二回目の緊急事態宣言というものが出ているが、NHKニュースでは「人出は減っていません、政府は不要不急の外出を控えてくださいと呼びかけています」とそればかりだ。西村大臣は「四月と同じレベルでの自粛を」と呼びかけている。氏のTwitterのアカウントもあるが、どうしようもなく読解力のない人々のリプライが垂れ下がっている(こういうものを今の時代ではクソなリプライ、略してクソリプ、と言うようだ)。

コロナウイルスというものが蔓延しているため外出の自粛を政府が国民に要請している。自粛をというのは、そもそも自らの意思によって慎むことであるのだから、それを要請するというのは、けだし矛盾を孕んだ表現である。しかしもう誰も何も言わなくなってしまった。テレビでは、飲食店を営む人たちが阿鼻叫喚のごとく補償について述べている。

人々も2つに分断されてしまったように見える。一つには、粛々と人との接触を避けて家に引きこもっている人たち。一つには、気にせず普段通りの生活を続ける人たち。我慢して家にいる人たちが、感染症を広げていると言われている外出する人たちへやり場のない憎悪にも似たような気持ちをSNSYahoo!コメントに書き連ねている。近頃は、民間の病院がコロナ患者を見ないと報道されており、「俺たちに自粛を求めるなら民間病院もちゃんとコロナを見ろ」と言わんばかりにバッシングが生じている様子である。今日は東京都では1500人余の感染者が確認されたとのことであった。これでは、とても病院には入りきらないだろう。本当かどうかはわからないが、人々の中には「首相はコロナを風邪だ、お年寄りがある程度亡くなるのは仕方ない」と思っている、と言っている者もいる。政治というものは、ある一つの利害団体を重んじるわけにもいかず、難しい舵取りである。

丸山眞男の評伝を読み終える。昨日と今日の大学共通テストの倫理では小林秀雄丸山眞男吉本隆明、ハンス・ヨナス、ベンヤミンも出題されたそうだ。なんとなく、どのようなものが何を考えて問題をつくったかわかってくるような選び方である。評伝の中で、1950年代の附添婦廃止問題と「死の座り込み」について知る。1996年の3月にも健康保健法改正で廃止されたそうだ。

丸山の無責任の体系の話など、もう巷では聞かなくなってしまったが、このコロナの惨禍の中にあっては取り上げる者が一人くらいいてもいいように思う。

1月6日と1月7日(自己責任論のこと、緊急事態宣言の日)

2020/1/6

 健康に対する自己責任論や、社会の中での処遇に対する自己責任論というのは2010年くらいから言語化されるくらいにはまとまりをもった空気として感じられるようになった。格差社会という言葉が流行したのは2006年だったかと思う。そのあとから徐々に所得だけではなく健康についても格差が指摘されるようになっていった。「デブで病気になっても自分のせいだ、医療費は払いたくないな」みたいな空気。ついこの間まで、こういう話題も世間には多く存在していた。とてもギスギスしていると私は感じていたが、平時の平和な論争といった穏やかなものだったのかもしれない。私は、確かに自己責任か、と思う一方でそれで片付けてはいけない気持ちもありモヤモヤしていた。そんな中、健康に関する自己責任論はNHKでも取り上げられて話題にもなった。

 今回のコロナも、当初はこの自己責任論が少しの間は賑わいを見せていた気がする。「病気にかかって苦しい思いをするのは渋谷でパーリーピーポーした結果、自業自得だ」「重症化するリスクが高いのに出歩いた結果」などなど。ただ、今回は無症状での感染という厄介さがあるため、完全なる因果応報ではないことがことを複雑にしている。「あいつらはほっておけ、関係ないから」と無関心を決め込むにしても、感染が広がってしまうととばっちりを受けるのは社会全体である。「仕方ない、自分たちにできることをやっていくしかない」という気持ちが続けば良いが、最近のニュースを見ているとそれも難しくなってきているように見える。日本モデルというのは言ってしまえばいじめと陰口による感染対策のことで、こうした中では出歩かず人と会わないことが最適解となるが、そういうモデルからの外れ値である痛くも怖くもない無敵な人々がおおよそ15%はいる(らしい)。この15%もマスで見れば感染拡大に寄与してしまう。なんのために我慢してるんだ、となる。それがまた次の感染拡大につながっていく。人の悪口を言わないことはとても良いことだけれども、無関心(ノンポリ?)を決め込むことのできる層はそう多くない。

 こういうことが頭をよぎったのは、もしかしたら政府≒政策決定に関わる者の中には、やきもきして半ば自己責任論になっている人もいるんじゃないかと思ったからだった(この手の話はすでにいくらでもなされている)。前述のように今回は自己責任論で片付けるわけにはいかないものの、自己責任論のようにスケープゴートにできる対象がいないことには精神的な安寧は得られないのもまた事実であり、人々の我慢は、総体として少しずつ社会全体のメンタルヘルスを蝕んでいっている気がしてならない。

2020/1/7

 今日は緊急事態宣言というものが夕方に発令された。東京では2,400人以上が感染したとのことだ。
 昨日から「この国はいざと言うときに国民の命を守ることはないんだった」と思いを改めた。いまは二次大戦に関する本を物色している。立場がそうさせるのかDNAに刻み込まれているのか、責任を取らずに済む選択肢があれば易々とそちらに流れてしまう。当人には自覚はもちろん無いだろうけれどもそう見える。そんなの簡単じゃ無いか、「今更変えられない」というオペレーションのストレスと人命を天秤にかけなくても人命を優先するのは当たり前では無いか、と思うけれどもなかなかそういう思考にはならないようだ。「え、でも飲食店だけでしょ」と。政府はありとあらゆることをすると口では言いながら飲食店に集中、と言っており現場を混乱させている。責任を取れるような身体を張れる人間というのはやはり少ないように思う。
 私は父を失うかもしれない、友人を失うかもしれないという不安と隣り合わせで勤務を続けている。デーヴ・グロスマンによる『「人殺し」の心理学』で世界一訓練された米軍兵士であっても15〜20%の兵士しか実際には発砲しない、という話を思い出している。権力で人命を落とすほど馬鹿馬鹿しいことはない、というのはパワハラやいじめの問題でも同じだけれども、医師や看護師も同じ状況かもしれない。「やばいと思ったら逃げていいと思うよ」と友人と電話で話をする。

 今回の宣言は「飲食に集中的に取り組む」ことでその他の本当に苦しいところには守らない言い訳の余地を残したと解釈するけれど、一方で責任を負うべき層に「飲食じゃないから今更変えられない」という言い訳も残した。機能するかどうかは日本モデルといういじめと陰口の力学頼みだが、これはモラルハザードの大きさに依るだろう。蓋を開けてみないとわからないが私は悲観的だ。