SNSに存在すること

比較

 人との比較をやめる、というのは難しいことだ。これまでの人生で身体に染み付いているし、競争はモチベーションを上げてくれるものだ。一概に悪いとも言えない。でもよく耳にする言葉でもある。自分のできることに集中して、周りを気にせずに夢に向かって一直線で突き進もう、周りは関係ない、比較したって仕方ない、と。
 解釈が必要だ。
 他人の物差しで生きるのはつまらないからやめよう、という意味であるなら、ある程度納得できるかもしれない。社会で生きていて、比較から逃れられることはないからだ。どの分野であれ、必ず比較される。なんだって比較されてこそ価値が与えられる。そのときに、その物差しありきでものを考えて生きていたらつまらないし小さくまとまってしまうよ、と。そういうことなのかもしれない。

SNSに存在すること

 職場の友人から、遊びに行きたいけれど緊急事態宣言が出ているから行っていいか迷っていると相談を受ける。僕は「スマホや電子機器のGPSを切って、決済はすべて現金で定期券も使わずに切符を買って、どこに行ったとかSNSに書かなければその行動は存在しないのだからいいんじゃないかな」と半ば冗談のような、冗談ではないような返しをした。SNSに存在しないことは存在しない。SNSに在ることが存在。これは「在るとはどういうことか」を問うてきた存在論の哲学に一つの定義を与えるものだなと思った。
 物事があるとは、SNSに存在することである。

孤独

 孤独は健康に良くないらしい。寿命を縮めてしまうそうだ。やだな。
 この土日も、少し仕事をして、その他の時間は1人で過ごした。毎日5キロを走るのと、食糧品の買い物以外には外に出ないし、人にも会わない。楽器を弾くことで、対話をしている気持ちにはなるから気持ちは和らぐけれど、誰かと喋りたいなと思ってしまう。みんなはどうしてるんだろう。
 こんなことになるならコロナになる前に結婚しておけば良かった、デートもできないじゃないか。みんなはデートしてるのかな。でも異なるコミュニティの人と会うの、怖くないのかな。俺はちょっと怖いな。でもそうこうしているうちに歳を一つ重ねてしまう。ちょっと焦りみたいなものもあるし女の子なら尚更だろう。ちゃんと家で過ごしている人もいて、こういう行動がまた負の感情を惹起してしまう。あーやだやだ。
 毎日走っていても、こんな感じに落ち込んだりしてしまうので、いったいメンタル弱めなひとたちはどうやって気持ちを維持してるんだろう。先が見えないと思って悲しい気持ちになってしまっているひと、いっぱいいると思うのにな。
 がんばろう、なんとかなるさ。よく寝て起きたら明日もいい天気だ。

クックパッドマートの担当者さまへ

 クックパッドマートの担当者 様

 お世話になっております。
 船橋市に住む株主です。船橋駅の近くにもクックパッドマートの受け取り店舗を置いてください。
 よろしくお願いいたします。

 僕より

江戸時代

 読んだ。江戸時代の経済政策について、主に米価の調整について書かれている。とても面白い。江戸時代はお金の基本はお米だから、各藩の大名や幕府も財産の基準はお米だった。大坂ではそのお米の引換券である米切手を使った証券市場が出来上がっていて、幕府はここでの取引に介入しつつ物価の調整をしていた、という話。なんとまあ、今の世の中とそう変わらんやん、ていう。人間の基本OSはそう簡単には変わらないよな。

最近考えていたこと

メンタルヘルス

 あまり張りのない生活、仕事の日々。仕事も締め切りに追われている。あまり良くないサイクルだ。
 もう半年くらい、友達とご飯に行っていないような気がする。実際には3ヶ月ほどかもしれないが、感覚的には半年くらいな感じ。
 この前、子供達の鬱が記事にされていた。
www3.nhk.or.jp
 でも、大人も同じようにメンタルヘルスが悪化していそう。人に会って刺激を受けてコミュニケーションをするというのが人間のメンタルの健康にはどうしても必要だけど、これを減らすことを推奨されているのだから、うっすらと、(世界のみんなもそうかもしれない)みんなで少しずつメンタルヘルスを悪化させているような状況だろう。大きな問題にならなければ良いが...。震災から10年、被災地のお年寄りの方たちが睡眠薬を飲む量が増えたというニュースも見た。これは処方する医師側の問題もあるだろうけれど(ベンゾジアゼピン系を高齢者が処方されているなんて、と考えると胸が痛い)、今回のコロナでも何も知らずに断薬する時に離脱症状のあるような薬漬けになる人が少ないといいな、と思う。

 いつまでこの生活を続ければいいのだろう。

体から得る情報

 コロナでリモートになったり、オンラインになったりしたけれど、僕はまた落ち着いたらみんな出社するのが良いよねとなって、元に戻ると思っている。
人は体からも情報を得ている。とても大きな情報量だから、うつ病の人なんかは人に会うと消耗して疲れて寝込んでしまったりする。定型発達の普通の人たちは人にあっても疲れはするけど寝込んだりしないけれど、人と対面で会うことは、ものすごい情報量を脳が処理しているということだ。政治家が会食をするのを「オンラインでやれよ」と批判する向きもあるけれど、体を突き合わせて行われる情報交換では、単なる情報以上のものが交換される。それは0と1に置き換えて書き換えることができないものだ。

 「オンラインでいいよ」「メールでいいよ」というメッセージは、「別にお前の体が必要なんじゃなくて、ほしいのは情報だから」というメッセージを暗に含んでいる。ほしいのは0と1で置き換え可能なアウトプットと情報だけだから、という。微妙な交渉やネゴシエーションをオンラインでこなすのはとても難しいと思う(できなくはないけど)。だから、01で置き換え可能な職種や仕事はいいけれど、コミュニケーションや01に変換できない種類の物事は対面で残さざるを得ない。自分が経営者だったら、とてもフルリモートにするとは言えないな、と最近は考えている。

ゼロイチ読書

 最近は新書ばかり読んでいる。新書は情報が詰まっている。読書には情報を得るための読書と、読書そのものを味わうための読書がある。大きく分けると。
新書なんかは、情報を得るための読書で、どのような文体であれ、情報が正しく受け渡しできれば良い。あるいは、どのような文体で書かれてものであれ、自分の中で知識の体系として再構築されるから、究極的には0と1で記述が可能なものだ。
 一方、詩集なんかは、情報を得ようと思って詩集を読む人はいるかもしれないが、それはとても変わった人だろうと思う。大抵は一言一句の形や響きやイメージを味わう。それは0と1で表象することはとても難しい種類のものではないだろうか。
 どっちが、というものではなくて、どっちも。

グループシンク(集団浅慮)

 毎日新聞が取り上げていていいなと思った。アーヴィング・ジャニスの概念。ただ、この毎日の記事は正しくジャニスの概念を反映しているかは疑問が残る。
mainichi.jp
 この概念を踏み台にして問うことができるとすれば、それは「この民意はどれだけ傾聴に値するだろうか?」だろう。最近の政治を見ていると民意に流されることが多く見受けられるけれど、ネットの論調を受けて民意を反映したとして、果たして民意だからという理由で政治決定をしていいのか。という問題。