Without haste, but without rest.

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芸術などなど

芸術と技術

このゴールデンウィーク、ラフォルジュルネに参加した。で、公演を聴きながら色々と思うところがあったわけだ。フランス系のお祭りだからフランス人が多いことに異論はないけれども、「何故この奏者は評価されているのだろうか?」というのがまず第一だった。クラオタでもないので、新しく聞く奏者が多かったのもある。まぁ、上手い。上手いと言ってしまえば上手い。でも上手い人はいくらでもいるだろう。何がコンクール入賞とその他を分けるのだろう?というそのあたりの問いである。

羽生選手のことば

今の時代は、芸術を評価する絶対的な基軸たるものは、無いとする見方が一般的だろう。だからこそ、羽生結弦の例の発言くらいしか、評価の基準に据えることができない。

「芸術とは、正しい技術、徹底された基礎力によって裏付けされた表現力がないと、芸術として成り立たないと思っています」羽生結弦

だが、これでも納得しない人は納得しないだろう。「正しい技術」とは何か?がわからないからである。
私はスケートは素人なので分からないが、音楽においては所謂正しい技術というものは、複数ある。流派と言ってもいい。その上で、正しい技術というものが存在するのか、という問いには、NOと言うのが一般的だ。技術というのは技術であって、善悪とは別のものだ。大袈裟だが、大量殺戮できる技術があることと、善悪を切り離して述べることと同じだ。正しさというものはある条件下でなければ存在しない。条件を信仰と言い換えてもいい。人体を傷つけないことが正しさなのか、表現されるものの美しさが正しさなのか、声の大きさが正しさなのか。より「自然」であることが正しさなのか。このような問いには答えがない。かくして、デュシャンが登場し「やったもの勝ち」という時代になる。

ぼんやりとした理論体系

スケートには育成メソッドのようなものがあるのだろうか。violinでいうところの鈴木メソッドのような。音楽であれ、ランニングであれ、野球であれ、教育体系というものは存在する。とても漠然とした体系だけれども、「一応正しいことにしましょう」という仮定のもと、受け入れられている体系。これらは時代によって変化し、より刷新されていく。金管楽器に「金管楽器を吹く人のために」というフィリップ=ファーカスの本があり、その後にクラウド=ゴードンが本を出したように。

ぼんやりと共有された正しいとされる技術体系

芸術の価値というものが酷く曖昧になっている以上、そうした「ぼんやりと共有された正しいとされる技術体系」というものも、時代によって変化していく。芸術と言われるものも変化していくのだから。ベートーヴェンにせよ、誰にせよ、生きているうちに評価を確立した芸術というものは少ない。
以上の長々とした補足のうえで、羽生選手の言葉は受け取ることが(僕には)出来るように思う。

フィギアスケートの採点方法と世相

フィギアスケートは技術点と構成点に分かれている。構成点というのは、かつては芸術点と言われたものだと思う(あまり詳しくないので間違っているかもしれない)。時代をよく反映していると思う。技術というものは、ある程度目に見えて差異がある。芸術に点数をつけることは難しい。神様が存在した時代は良かったかもしれないが、もう神は存在しない。どんなに観衆を魅了する演技をしても、それが表彰台の順位にはそのままでは反映されない、というところが、そのまま現代の芸術というものの理解をよく表しているのではないかと思う。