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書くこと

2013年の春から秋にかけて僕は一つ小説を書いていて、文芸賞に応募した。結果は一次にも残らなかったけれど、あれは良い経験になったと思っている。その頃から書くことには苦痛を伴うようになり、うまく息ができない感覚が常にあった。文章を構築することにストイックになる、読み物として人を唸らせるもの、あるは心地よいものを書こうという気持ちが先行してしまい窮屈だった。いまでもそのきらいはあるけれど、何かを言う事に対する責任とか、新しいことを言わないと意味がない、というような「これもあれも全部世の中を探せば言い尽くされていることばかりじゃないか」という結論に至り、結局なにも言えなくなるし、書けなくなるという顛末。プロはここから先に進めるからプロなのだろうな、とも思った。


書いている最中というのは、「この作品は世界で俺にしか書き上げることができないものなのだ」ということの他に拠り所がなくなることがある。とても孤独できつい作業だ。今では思い上がりもいいところだ、と思う余裕があるけれど、でも何かを書いたり世に発表するという行為にはそういう側面がつきまとう。これまで一度もクラシック音楽を聴いたことがない子供にクラシック音楽を聴かせる演奏会ならば、その子の音楽人生を決めてしまうかもしれない。下手くそな演奏をしたら、「なんだ、クラシックってつまんない」と思われてその後興味を持ってもらえないかもしれない。「クラシックって面白い」と思ってもらえれば、仮にその子がピアノを習っていたとしたら、練習に熱心になるかもしれない。というような。でも結局、僕がこうして思うほどに事は深刻ではないし、人も深刻には受けとめない。できることはどんどんやった方がいい。年末に事務所の忘年会でヴィオラを弾く機会があって、僕はその余興でちょっとした曲を弾いた。本当に大したことはないのだけれど、ものすごく感動してくれる人もいて、それはとても嬉しい出来事だった。クラシックに触れる機会が多くなればいいなと思っているけれど、その自分の思考の根本では、その反対のことを考えているということに気づかされた。


おそらく文字量で言えば、一番多く文字を書いたのは高校生の頃で、それ以降はどんどん文字数が少なくなっていった。それで小説を書いて一気にものが書けなくなってしまった。だからアパートメントの23期に2ヶ月間の連載を受け持った時には不安しかなかった。(2015年の10月と11月に計7回書いた)。久しぶりに長い文章を書いて、千葉パルコについて書いた時にはある程度反響もあったので嬉しかったけれど、自分の満足いくようなものではなかったし、自分の書こうとすることと、読む人が興味をもって読んでくれるポイントにもギャップがあった。aとbとcとdを並列して書いたあと、ではそこからどう思って何を考えたのか、という思考する力が圧倒的に足らない(もともと苦手な分野だ)。でも、総じてよい経験をさせてもらったと思う。どんどんアフォリズム的形式が心地よくなってしまいがちなので、今年はたくさん長いエッセイを書きたいと思う次第。